青天の霹靂 追悼=佐々木力 寄稿=野家啓一
私の大学時代の先輩、佐々木力さんの追悼文が週刊読書人 1月15日号に掲載された。筆者は氏の理学部での後輩となる 野家啓一さんです。 佐々木力さんは昨年の12月に73歳で急逝されました。 青天の霹靂 追悼=佐々木力 寄稿=野家啓一 「青天の霹靂」とはこのようなことを言うのであろうか。佐々木力さんから新著の『数学的真理の迷宮』(北海道大学出版会)を送っていただき、御礼のメールを出そうと思っていた矢先のことである。 十二月十一日の夕刻に携帯電話の着信音が鳴り、共通の友人である経済学者の半田正樹さんから佐々木さんの急逝を告げられた。余りのことに気が動転し、思わずスマホを取り落としそうになったことを覚えている。何かの間違いではないか、そうであってほしい、と一瞬思ったが、帰宅すると新著の担当編集者である竹中英俊さんからの訃報メールが入っており、動かない事実と思わざるをえなかった。 私が佐々木さんと初めて出会ったのは一九六八年前後、理学部闘争委員会の集会であったか、市中のデモの隊列のさなかであったか、いずれにせよ政治の季節の渦中のことであったと記憶する。佐々木さんは東北大学理学部数学科の大学院生、私は物理学科の学部生だった五〇年も前のことである。 当時は廣重徹の論文「問い直される科学の意味」が理学部の学生の間でも話題になっており、佐々木さんたちと語らって廣重さんを仙台にお呼びして講演会を開いたことも、今となっては懐かしい思い出である。その頃すでに、佐々木さんは「岩井洋」の筆名で東北大学新聞に健筆をふるっており、さらに『思想』一九七〇年一二月号に「近代科学の認識構造」を本名で発表され、その廣松渉ばりの文章が評判になっていた。 その後、佐々木さんは数学史へ、私は科学哲学へとそれぞれ当初の専門とは別の道を歩んだが、二度目の出会いは東京大学駒場キャンパスの科学史・科学基礎論研究室においてであった。佐々木さんは伊東俊太郎先生に、私は大森荘蔵先生に師事したが、ほどなく佐々木さんは数学史研究のため米国プリンストン大学へ旅立たれた。 三度目の出会いは、そのプリンストン大学のキャンパスである。一九七九年に私がプリンストン大学に留学した折、佐々木さんはすでに滞米四年目で博士論文の準備に余念がなかった。その頃のプリンストンには世界の科学史・科学哲学をリードする教授陣が揃っており、佐...