「地に伏して、拝する」


一昨年(2019年)に天国に召されたある清貧の女性を慕って行った説教です。今年(2021年)にも改めて説教しました。

「地に伏して、拝する」

―早坂啓子姉妹を偲んで―

細井 実


この教会の会員として長く奉仕され、一時はライフセンターの2階にお住まいだった早坂啓子姉妹が 6月27日に天国に召されました。最近は「キリストの集会」という集まりに参加されており、皆さんとは少し疎遠だったかもしれませんが、姉妹が教会の熱心な会員であった頃を知る私たちや同世代の方々は、かけがえのない大切な方を天国に送らなければならなかったという、悲しみに包まれています。

7月16日の火曜日には「早坂啓子姉妹 お別れ会」が市内の江陽グランドホテルで開かれました。主催は弟の早坂貞彦さんでした。司会はもう一人の弟である早坂徹さんでした。

貞彦さんは仙台在住で以前より啓子姉妹と交流があり、私たちも存じ上げていましたが、もう一人の弟である徹さんとは初対面でした。啓子姉妹からはそのような弟がいることを聞いたことはなく、亡くなった時に病院で、貞彦さんから伺い驚ろかされました。

啓子さんが自分から話すことは少なかったのですが、貞彦さんから伺ったところによると、貞彦さんが生まれてから間もなくお母さまが亡くなり、のち添えに入った方がいたのですが、徹さんを身ごもったころお父様も亡くなられてしまいました。貞彦さんと啓子姉妹は当時神戸にいたそうです。二人は、仙台近郊の吉岡のお父様の実家に預けられたということです。徹さんはお父様が亡くなった後お生まれになり、お母さまが一人で育てられたとのことでした。

啓子さんの人生は、両親がお亡くなりになったところから始まったといえるかもしれません。さらに小学校の頃におじい様がり患していた結核に侵され、脊髄カリエスを患うようになったということです。それからは入院生活が長く続き、入院先で知り合った高橋栄子姉妹に妹のようにかわいがられ、キリスト教に導かれたのです。その後結婚もなさったことがあるとのことです。どのように生きてきたのか貞彦さんも詳しいことはよくわからないようです。断片的な思い出しかないようでした。茨城の老人施設ナザレ園に栄子姉妹と共に働いていた頃、この教会の牧師であった馬渡兄弟に促され栄子姉妹と一緒に仙台に転居なさりの障害者の福祉施設を運営する共生福祉会の授産施設で、印刷の仕事をなさっていました。

仙台に来られてからは栄子姉妹に連れられるようにして私たちの教会に通い、昭和63年に受洗されました。受洗によってこの教会の会員としてのクリスチャンとはなりましたが、神様への信仰は、はるか昔、青春時代に得ており、推測ですが無教会のクリスチャンとして信仰を守ってきたのだと思います。

そのような啓子姉妹のお別れ会は吉岡の従妹たちとキリストの集会の方々、それに私たちの教会からは安部兄弟姉妹、佐藤恵子姉妹、目黒功子姉妹、それと私たち夫婦が参加して開かれました。主催の貞彦さんはカトリック、司会の徹さんはセブンデイズアドベンチスト教会の会員でしたので、キリスト教の司式で行われました。遺体は東北大学に献体として納められたので、遺影を前にし、幼子であった時代から最近までのいくつかの写真に囲まれての集まりでした。

私は次のような惜別の辞を捧げました。

「惜別の辞

「啓子さん、啓子さん、早坂さん。」いくら呼んでも。もう返事はありません。いや、いつもは「まことさん、元気。」とあなたの方から声をかけてくれるのでした。でも、もう、その言葉を聞くことはできません。

「なぜこんなにも早く、それも駆け足のように急いで逝ってしまうのですか。」

6月27日の午後のことでした。

弟の貞彦さんから電話がありました。電話口の向こうからは「姉が亡くなりました。」という少し震えた声が聞こえました。実はそれはその日二度目の電話でした。午前中に啓子さんが入院したとの連絡があり、お見舞い行こうとしているやさきでした。

私は思わず「そんな、ばかな。」と大きな声をだしてしまいした。入院と聞いてから3時間も経っていなかった。そんな急な訃報に驚き、狼狽し、ただ唖然とするばかりでした。

「そんな、ばかな。」

緊急避難として入ったショートステイから、終の棲家とできる特別養護老人ホームに移り住むことができたばかりでした。それはあなたが、かねてから入りたいと願っていた施設「曉星園」でした。引っ越しをし、市営住宅の荷物の整理が終わったら、とたんにあなたは召されたのです。

「これからだったのに。」

そんな悔しい、やるせない思いを抑えることができません。感情はたかぶり、行き場を失います。

啓子さん、あなたはとびっきり「やさしい」人でした。

いつも周りの人を気遣い、その悲しみや苦しみに寄り添ってくれました。

私の母が90歳近くになって重い認知症を患い施設に入っていた時、遠いところを、けっして丈夫でない足腰にも関わらず、訪れてくれました。「琴子さん、琴子さん、元気、元気。」、母の名を呼んで慰めと励ましの声をかけてくれました。母の目には薄っすらと涙が潤んでいたように思います。

5月22日は私の娘の命日です。あなたは抱えきれないくらいたくさんのお菓子を持って訪ねてくれました。その日には娘をしのぶために、同級生がたくさん集まります。娘をしのぶという名目で、小学生時代や中学生時代の思い出を語り合い、賑やかにすごしていくのです。そのことを知っていて、あなたは、彼らに感謝の気持ちを伝えるために、わざわざたくさんのお菓子を買ってきてくれるのです。

啓子さんは、仙台キリストの教会員でした。かつて教会に住んでいたことがありました。教会の要として会堂の管理や礼拝への奉仕を熱心にしてくださいました。その後少し遠い市営住宅に移りましたが、それでもバスを乗り継いだり、タクシーを利用して礼拝に参加しました。教会の帰りは、私たち夫婦が自宅まで車で送りました。時々部屋に招き入れられお茶をごちそうになりましたが、不思議とただその部屋に座っているだけで、気分が落ち着き、すがすがしい気持ちになるのです。言葉少なげだけれど、啓子さんが醸し出す存在感、雰囲気とでもいうものがそう思わせるのです。それはあなたの「やさしさ」が生み出す空気の感触のようなものでした。

最後の住み家となった「曉星園」でも、きっと自分をさておいて、職員やほかの利用者を気遣い、声をかけたり、励ましたりしていたに違いありません。わずかな期間しか一緒に過ごすことができなかったけれど、きっと皆あなたに感謝しているはずです。そして、その「やさしさ」を忘れることはないでしょう。

「もうそのやさしさに触れることはできないのです。」

啓子さんが自ら語ることは少なかったけれど、その生きてきた道筋には、苦悩にあえぐ時、悲嘆にくれる日々、そして多くの艱難があったことを聞いています。でもそれをただ耐えるのではなく、神様に出会うことで明日への礎にと変えてきたのだと思います。

「やさしさ」の源は、その苦悩や悲嘆、艱難にこそあったのではなかったか。

そう思うと、あなたの「やさしさ」には、ただただ首を垂れるほかありません。

また、あなたの「やさしさ」に2度と触れることができないと思うと、涙が止まりません。

もう5月22日にお菓子が届けられることはありません。

その「やさしさ」の空気で満たされた「曉星園」の部屋を訪ねることはできません。

「まことさん、元気」と呼ぶかけられることもありません。

そして妻の名や、息子、孫の名を呼んで「元気」と尋ねられることもありません。

でも、

念願だった「曉星園」を文字通り終の棲家とすることができたこと。

施設に居ながらにして神様への「礼拝」を守ることができたこと。

きっと、あなたの「やさしさ」を受け止めることのできる職員に囲まれていたこと。

すべての片付けも終わり、「これでやっと安心できた。」と思う日をすごしていたこと。

そして、きっと悔いを残さず、その時を迎えたこと。

神様は あなたの生涯のことを思い、そばにいてあなたの祈りを聞いてくれたのだ。

と思うのです。

あなたの生涯にはたくさんの悔恨があったとは想像します。でもきっと神様はその悔恨を打ち消すことの出来る、その時を与えたのだ。

と思うのです。

「そんな、ばかな。」と狼狽し唖然とするのではなく、ただ嘆き悲しむのではなく、「これでよかったのだ」

と思うのです。

啓子さんの生涯を支えたもの、それは神様への愛でした。神様から与えられた愛でした。その愛があるからこそ、苦悩と悲嘆と艱難を、そして悔恨をも「やさしさ」に変えて生きていくことができたのだと思います。

啓子さん、あなたは私たちに「やさしさ」とは何かを示してくれました。「悲しみや苦しみに寄り添うこと」とはどうすることか教えてくれました。

そのことに心より感謝し

今天国へ見送りたいと思います。

「いってらっしゃい!」


そして言った

「わたしは裸で母の胎を出た。

また裸でかしこに帰ろう。

主が与え、主が取られたのだ。」

主の御名はほむべきかな。」

ヨブ記第1章21節」


最後にヨブ記の一節を加えました。

ヨブは1章 1節から3節にあるように、「そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」人でした。また「男の子七人と女の子三人があり、その家畜は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭で、しもべも非常に多く、この人は東の人々のうちで最も大いなる者であった。」といわれるほどの資産家でした。 

しかし神の許しを得たサタンはヨブの上に信じられないような災禍をもたらします。

それは次のようなものでした。まず、「シバびとが襲ってきて、これを奪い、つるぎをもってしもべたちを打ち殺します。」次に「神の火が天から下って、羊およびしもべたちを焼き滅ぼします。」更に、「カルデヤびとが三組に分れて来て、らくだを襲ってこれを奪い、つるぎをもってしもべたちを打ち殺します。」築き上げてきたすべての財産と使えていた多くのしもべたちを失います。サタンのもたらす災禍はそれだけではすみません。「ヨブのむすこ、娘たちが第一の兄の家で食事をし、酒を飲んでいると、荒野の方から大風が吹いてきて、家の四すみを撃い、若い人たちの上につぶれ落ちて、皆死んでしまうのです。」(ヨブ記第1章15節から19節)

これほどの災禍はあるでしょうか。

啓子姉妹の生涯とヨブが受けた災禍を同時に論ずることはできないでしょう。啓子姉妹は、幼い頃両親に旅立たれ、兄弟とも別々に育つことを余儀なくされてきました。障害をも背負い、必死で命をつなぐ日々を過ごしてきたのだと思います。ヨブは平安で恵まれた日々を生き、突然全てを失うのです。啓子さんの生涯には、ヨブのような物質的な豊かさを得、多くの家族に囲まれた平安な日々は、一日たりとも訪れることはなかったのではなかったか。そう思うのです。そういう意味では仮にヨブがサタンに試されているとするならば、啓子さんはその生涯に渡ってサタンに試され続けたといえるかもしれません。

ヨブは、すべてを失いながらも、その災禍をもたらした神に向って地に伏し礼拝するのです。

啓子姉妹は若くして神様に出会い、病の床にあっても神様の愛を信じて生きてきました。

多分どこに住んでいようとも、どのような職業に就いていても、どのような境遇にあっても、自分を宿命づけている神様を信じ 地に伏し礼拝し続けてきたのだと思います。

その信仰はヨブより深いものかもしれません。そうでなければあの啓子姉妹の「やさしさ」はあり得ないと思うからです。

いや比較してはいけないことでしょう。地に伏し礼拝することこそが物質や家族が与える恵みより、心に達する恵みをもたらすのです。


ローマ人への手紙5章 1節から4節にはこうあります。

「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。 それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。」


悲しみや苦しみの渦中にある人にこの言葉は素直には受け入れられないでしょう。そのためには立ち直るための時間が必要だと思います。しかし、啓子姉妹は幼少の時から患難の渦中にあり、その生涯そのものが患難であったとさえいえるように思うのです。だからこそ立ち直るための時間など持つこともできず、ただ地にひれ伏し礼拝しつづけ、艱難がいずれ希望を生み出すことを信じ続けてきたのだと思います。

だからこそ財産や家族や名声に恵まれてしまった人間がけっして得ることのできない、おだやかでやさしさそのもののような人柄に恵まれた「者」として生涯を終えることができたのだと思います。

啓子姉妹が「暁星園」に入所したので、天に召される数日前に市営住宅の荷物の整理が行われました。妻がその際蔵書の一部をいただいてきました。日焼けした沢山の本を見て驚きました。そこには東大総長であり内村鑑三と共に無教会主義を提唱し経済学者であり宗教学者でもあった「矢内原忠雄」の全集がありました。また矢内原と並ぶ宗教学者であり伝道者でもあった藤本正高、塚本虎二、藤井武の全集まであったのです。それは図書館にでも行かなければ手にすること出来ないものばかりです。啓子姉妹がそのような著書を身近に置いて生きてきたことに驚愕したのです。

啓子姉妹が、生涯を信仰にささげた証がその蔵書にも示されているのだと思います。

矢内原忠雄全集に「ヨブ記講義」という論文が掲載されています。その中でヨブ記第1章22節までを受けて次のように論じています、一部割愛してお読みします。

「この事においてヨブは全く罪を犯さず、神にむかって愚かなことを言わなかった。(ヨブ記第1章22節)

何という高潔な信仰であることよ。これほどの悲惨な打撃を受けながら、ヨブは少しも取り乱すことなく、神を恨まず詛わず、神の為し給うことをすべて是認し、完き従順をもってこれを受けたのみでなく、苦難の真唯中から神の御名を賛美さえしたのである。-中略-信仰というものはこれでなければならない。信仰とは神との愛の契りである。心の交わりである。-中略-その時われわれはただ神の霊的な愛だけを頼りとし、物的幸福がないだけそれだけ裸で、じかに神の愛に触れる。神の愛のまじりなき抱擁を受けて、われらは神の御名を賛美するのである。-中略-財産を失った者、あるいは子供を失うた者は、悲しみと苦しみの中からこのヨブの告白が神を信じる者の真実の声であることを経験するのである。」

全き従順をもって受け止めることは簡単にできることではありません。不可能とも思えます。しかし啓子姉妹は身に起こる悲しみや苦しみをそのまま受け止め、それらを神への愛へと昇華していったこと、そして、そのような経験をもってしか養えないような「やさしさ」や「思いやり」をもって生きてきたことは間違いありません。


改めてヨブ記第1章21節をお読みします。

わたしは裸で母の胎を出た。

また裸でかしこに帰ろう。

主が与え、主が取られたのだ。」

主の御名はほむべきかな。」


啓子姉妹は、裸で母の体よりでて、裸のまま生き、裸のままかしこに帰ったのです。

これほど清い、純粋な命はあるでしょうか。啓子姉妹のその生涯を讃えたいと思います


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