助けてください
- 明日お話しする予定の説教です。新型コロナ感染症の感染状況もあり礼拝は中止としました。4月4日の礼拝で改めてお話しすることになりますが、事前に投稿します。3.11の震災から10年、私たちはどこに居るのか、何者なのか、どうすることしかできないのかと、問いかけました。
令和3年3月21日
礼拝説教
助けてください
細井実
東日本大震災から十年の年月がたちました。
新聞やテレビ、また巷間においても様々なことが語られてきました。今は少し落ち着てきたという時かもしれません。耳目を賑わしたそれらの中で私が驚愕しながら読み進んだ河北新報の記事がありました。それは南三陸防災庁舎が津波に飲み込まれたその瞬間を生き残った職員の証言を繋げて綴ったものです。全体は8回にわたる連載ですが、ところどころ飛び飛びですがお読みします。
「ゴーッ」と地響きが伝わる。築55年の木造庁舎が音をたてて激しく揺さぶられる。「ついに本番がやってきたか。」「来るぞ、来るぞ。」と言われていた宮城県沖地震に違いないー。宮城県南三陸町の町職員は身構えた。2011年3月11日午後2時46分。」
「防災庁舎は鉄骨3階建で高さは約12メートル。危機管理課が入る2階には、災害情報の受信システムや防災行政無線などの機能が集約されていた。「15時、6メートル!」誰かが叫んだ。地震から3分後の午後2時49分全国瞬時警報システム(Jアラート)で気象庁の大津波警報が入った。」
「佐藤町長は少し遅れて危機管理課の室内に設置された災害対策本部に向かった。背広を置こうと放送室に目をやると。既に危機管理課の三浦毅課長補佐=当時(51歳)と遠藤未希さん=当時(24)の2人が、防災行政無線で「急いで高台に避難してください・」と 呼び掛けていた。」
「震度6弱の地震から28分後の午後3時14分。気象庁が大津波警報の予想高を「6メートル」から「10メートル以上」に引き上げた。「10メートルだって?想像がつかない」。遠藤健司副町長(72)は絶句した。災害対策本部は職員らでごった返していたが、職員たちは淡々と業務に当たっていた。「もう上れ、用のない者は上がれ」。高さ12メートルの屋上への非難を指示し、多くの職員が外階段にむかった。」
「防災庁舎の前駐車場に水があふれてきた。」
「八幡川に水が遡上し始めたのは午後3時45分すぎ。色めき立った町幹部が口々に叫んだ。「全員屋上さ上れ!」2階にはまだ遠藤副町長ら6,7人がいた。「茶色く濁った水が新幹線のような速さで河の縁をさかのぼってきた。」佐藤徳憲総務課長(70)は今も鮮明に覚えている。緊迫の度を増す放送室。「未希ちゃん、もういいから」。危機管理課の佐藤さんらが放送室に駆け込み静止した。「高台に避難してください。ただいま宮城県内に10メートルの津波が…」。未希さんの声に「上に上がって!上へ!」という幹部の切羽詰まった声が重なった。上司の三浦さんは「未希ちゃん上へあがれ!私が放送すっから」と促し、マイクに向かったとされる。午後3時25~28分ごろ突然。放送が途切れた。マイクのスイッチを入れたまま。全員が急いで屋上に駆け上がった、遠藤副町長らが最後に上がると、防災庁舎は海に囲まれていた。」
「黒い波が高さ12メートルの屋上に乗り上げ、54人が身構える。アンテナポールの下には、ヘルメットをかぶった職員らが住民を両手で取り囲むように円陣を組んだ。まだ高くなるのか」遠藤副町長がそう思った瞬間、目の前に波が迫った。とっさに眼鏡を放り投げ、大声で叫んだ。「みんな背中をむけろ。」これでもかこれでもかと波が容赦なく覆いかぶさる。午後3時33分、津波は宮城県南三陸町の防災庁舎を丸のみにした。」
引用はこれで終わりにします。
屋上より少し高くなっていた避難階段に8人、アンテナポールに2人だけが生き残りました。
遠藤未希さんと三浦毅さんが屋上に上がった後のことについての証言はありません。
遠藤さんのことは震災直後マスコミに大きく取り上げられ、その避難を促す声は何回もテレビから流れました。また結婚届を出してから日が浅く震災の年の9月に結婚式を開く予定であったこと等も広く報道されました。
私は当時 遠藤さんは迫りくる津波に向き合いながら最後までマイクを離さなかったと誤解していました。でもこの記事を読み、遠藤さんは他の町職員と共に屋上に避難し、そして波に飲まれたのだと 安堵に似た感情を抱きました。(当時の記事を改めて確認すると上司の命令で席を離れたと書いてありましたが。)
たった一人で 命が失われる瞬間まで職務を全うしたのだとしたら、その後多くの命を救ったといかに称賛され英雄のように扱われたとしても、その最後の瞬間の彼女があまりに寂しいと思っていたのです。
でも、きっと彼女は職場の仲間と手を握り合い声を掛け合い そして最後に力尽きて仲間と共に波に飲まれていったに違いないと、この記事を読んで思ったのです。むろん波の中で悶え息ができなくなった瞬間は一人きりだったでしょうが、その最後の記憶が屋上で怯えながらも仲間と居られたわずかな時間の光景あったとしたら少し救われるように思ったのです。
ローマ人への手紙12章 13節から15節
貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい。
あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。
喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい
彼女は決して英雄的使命感で放送を続けたのではないと思うのです。同じ庁舎にいた町職員は屋上に逃げるまで皆それぞれの職務を果たし、巨大地震の災禍からどのようにして住民を救えるかその方策を考えるために奮闘していたのです、その一つの職務として彼女は放送を続けたのです。彼女を英雄と呼ぶならばすべての町職員を英雄というべきでしょう。彼女を含むすべての町職員は住民を助けようとし、逃げ惑う多くの住民と共にその場所にいたのです。
ローマの信徒のたちはキリスト教への迫害に怯え苦しんでいました、それにもかかわらずパウロは心を平安に保ちすべての人と分け隔てなく共にいなさいと説くのです。
防災庁舎の町職員がその時平安を保つことはできなかったでしょう。しかし逃げ惑う住民と共にあり、また遠藤未希さんを放送室に残すことなく屋上に促し、多くの職員と共に居るようにしえたこと、どのように言い表したらいいのかわからないのですが「共にある」「共にあった」ことで むろんそれぞれの死は無残であったとしても、かすかな救いがあったように思うのです。
しかし何といっても、遠藤未希さんが地震の発生直後から、ぎりぎりの時まで、いや死の直前まで「逃げてください。」と放送し続けたこと、そのかけがえのない勇気に救われた命が数多くあったことへの感謝と称賛の思いは、震災の記憶と共に永遠に私たちの心に刻まれていくでしょう。
今日は震災の翌年2012年1月29日に、私がこの教会で行った説教を再びお話ししたいと思います。当時この教会は東日本大震災の救援に当たっていた水戸の教会の方々の宿泊場所と救援物資の保管庫ともなっていました。説教は水戸の教会から救援に来ていた方々の前で行いました。
久しぶりにこの教会のこの場所に立っています。
ジョエルが水戸の教会の奉仕を行いたいと言って仙台を去るまで、しばらく教会に足を向けることがなかったからです。
今この仙台の教会は、本当に小さな集まりでしかありません。鈴木兄弟の献身的な奉仕が支えています。
そのような中で皆さんが水戸よりいらっしゃり、このように礼拝の時間を持てることを大変うれしく思い、水戸と仙台の結びつきを計画した神様に感謝しているところです。
皆さんが、被災した方々のそばに立ち、その心に寄り添いながら、汚泥の処理や生活物資の配布等の生活支援に一生懸命取り組んでいることに、仙台の教会員として、心より感謝しています。
生活の復旧は震災以前の生活、様々な環境は変わっても、以前と同じような平安、日常の心や体の状態を取り戻すことにあるでしょうから、その道のりはまだまだ遠く、支援は続くものだと思っています。
神様に支えられた、友情にあふれた活動を続けることができるようこの教会でも、出来ることは少ないですが支援していきたいと思いますし、そうあるよう祈っています。
ヨブ記から聖句を拝読しました。
海岸の奥深くまで打ち寄せる真っ黒な津波、堤防を越える波のあまりの大きさ。そして流されていく家屋と失われたあまたの命。
それらを見ることのできた人は、きっと手を合わせ神様に祈ったことだと思います。もうやめてください。助けてください。
翌日の朝日を見ながら、悲しみと絶望の中で、なぜ神様はこのような仕打ちをなさったのかと疑いながらも、過ぎ去った惨禍に驚き、そして失われた命のことを思い、再び神様に祈ったことだと思います。やはり助けてくださいと。
この「助けてください。」という祈りの中に。私は神様と信仰の意味があるではないかと思い、またそう信じているのです。
ヨブ記は皆さんも良く知っているお話です。ヨブについてはたぶん震災の酷く厳しい現実を見知ったあと、多くの教会で語られてきたものと思います。
そこには人の知恵や思想を越えた神の姿が示されているからです。震災のことを考えるとき、だれでもそれを引き起こした力について考えるでしょう。無論それは自然、いや地球というこの星の仕組みが生み出した現象には違いありません。でもなぜ、そのような現象を起こし、そしてこの人間という生き物を悲しみと苦しみの淵に立たせるのか。
その問いに人間は答えることができません。
まさに震災と津波の現実が教えるように、人間は無力だからです。
ヨブは最愛の息子と娘を失い、偽りの手立てではなく蓄えたすべての財産を奪われます。さらに重い皮膚病に冒されてします。
ヨブはそのような自分の運命を呪い、嘆きます。
ヨブ記3章11節から15節にこうあります。
生まれてこない方が良かったのに。
生まれてしまった私は、洗い清められ母に渡され、最初の乳を与えられた。
それは本当は深い慈愛のあらわれ。
しかし今の私の境遇を考えたら、その時、母に抱かれず、乳を飲まさないでくれれば良かったのに。
このように言わざる負えないほど、ヨブは深い悲しみの中にいます。それを克服する方法を見つけることが出来ないのです。
そして神の力の大きさをただ認めるよりほかにどうしようもないです。
ヨブ記9章5節から12節にはこう記されています。
神は山をも移される。怒りによって山を覆されるのだと誰が知ろう。
神は大地をその立つ所で揺り動かし/地の柱は揺らぐ。
神が禁じられれば太陽は昇らず/星もまた、封じ込められる。
神は自ら天を広げ、海の高波を踏み砕かれる。
神は北斗やオリオンを/すばるや、南の星座を造られた。
神は計り難く大きな業を/数知れぬ不思議な業を成し遂げられる。
神がそばを通られてもわたしは気づかず/過ぎ行かれてもそれと悟らない。
神が奪うのに誰が取り返せよう。「何をするのだ」と誰が言いえよう。
神の業、神の仕事の意味を、人間が究めることはできない。その意味を知ることはできない。
人間には神の業に気づき、止めることなどできないのだ。
「何をするのだ。」などとどうして詰問することができようか。
このようにヨブは、神のなさることが人間には計り知れないこと、伺い知れないことなのだと言います。そして神には抵抗することも、問うこともできないという、神と人間の関係に絶望するのです。
また、自分は裁かれるようなことはしていないのに、神は私の人生をずたずたにした。
私は隣人を傷つけ富んだわけではない。自分にふさわしくないものを求め、そのために祈ったことはない。
私は何も罪を犯していないのになんということだ、私は無実であると。
ヨブ記16章12節から17節にはこうあります。
平穏に暮らしていたわたしを神は打ち砕き/首を押さえて打ち据え/的として立て
弓を射る者に包囲させられた。彼らは容赦なく、わたしのはらわたを射抜き/胆汁は地に流れ出た。
神は戦士のように挑みかかり/わたしを打ち破り、なお打ち破る。
わたしは粗布を肌に縫い付け/わたしの角と共に塵の中に倒れ伏した。
泣きはらした顔は赤く/死の闇がまぶたのくまどりとなった。
わたしの手には不法もなく/わたしの祈りは清かったのに。
神に訴えることはできないと思いながらも、神に訴え、いや神に抗議さえするのです。
でもいつか私の無実を神自身が証明してくださるという一縷の望みを涙しながらも訴えるのです。
神ご自身が、私のために証人となり、弁護してくださるであろう。私は、涙をながしながら神を仰ぎ、神が、人と人の間の問題を公平に裁くように、私と神とのあいだでも公平な裁きを行い、私に罪のないことを証してくださるように。
ヨブ記16章19節から21にはこうあります。
このような時にも、見よ/天にはわたしのために証人があり/高い天には/わたしを弁護してくださる方がある。
わたしのために執り成す方、わたしの友/神を仰いでわたしの目は涙を流す。
人とその友の間を裁くように/神が御自分とこの男の間を裁いてくださるように。
ヨブは、神の仕打ちに嘆き、怒り、その不正義を訴えさえするのですが、その不正義を裁くことが出来るのも、また神しかいないことを知っているのです。だからこそ、その苦悩はますます深くなるのです。
ヨブ記のどこを開いても、私は今回の震災と津波のことを考えずには居られません。
真実、いや現実の重さを前にして、どのような言葉も、そして聖書さえも言葉としてしか伝えられないとき、被災者にとっては無力であり、軽く空しいものと思われるかもしれません。しかし、私にはヨブ記における神の行い、ヨブを責め苛め、悲嘆にくれさせ、ヨブを神をも呪い、公正であるようにと神をも告発する存在へと仕向けて行く神の姿に、あの残酷な地震と津波という現実を重ねてしまうのです。人間の業や知恵を越えた、理解の届かない神の行いこそ、地震と津波の引き起こした悲惨な事件の数々に違いないのです。
ヨブは、友人との様々な論争において語りつくし、その後沈黙を続けます。
すると嵐の中から神の声が聞こえ、ヨブに語り始めるのです。
お前は何者か。
私が世界を創造した時、お前はそこにいたのか。その時星たちは私の仕事に歓声を送るように輝き、天使たちも喜んで褒めたたえた。お前はその時いなかったではないか。いなかったものに創造がどのようなものであったか理解できるというのか。
ヨブ記38章1節から7節にはこうあります。
主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。
これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて/神の経綸を暗くするとは。
男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。
わたしが大地を据えたとき/お前はどこにいたのか。知っていたというなら/理解していることを言ってみよ。
誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。
基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか。
そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い/神の子らは皆、喜びの声をあげた。
このように神は、人間はこの世の創造には一切関わりを持っておらず、神の目的、神のこの世界との関わりは、人間の思いや願い、すべての行動や活動とは無関係であり、それらを越えたものであると宣言するのです。
神は海もその支配下に置いています。大地と海の境を定め、その定めたところ以上に波が登らぬように計ったのです。
ヨブ記38章8節から11節にはこうあります。
海は二つの扉を押し開いてほとばしり/母の胎から溢れ出た。
わたしは密雲をその着物とし/濃霧をその産着としてまとわせた。
しかし、わたしはそれに限界を定め/二つの扉にかんぬきを付け
「ここまでは来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ」と命じた。
まさに海が人の業を越えて襲いかかったのが津波でした。
「ここまでは来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ」と命じた
この聖書の言葉を前にして私は身震いし立ち止ります。
なぜ、あの堤防の手前で、あの海岸の松林の向こうで波を留めてくれなかったのか。
私たちは神のみ業にどのように対峙するのか。
ヨブのように嘆き、怒り、呪い、告発し、そして沈黙する。
そのほかに方法があるでしょうか。
神の業は、人間の業とは無関係である。どのように祈り、正義を貫こうとも災いはやってくるのです。
私が思う救いは、ヨブが神の義を疑うことなく神に裁きを願い出るところのこの聖句です。
「わたしのために執り成す方、わたしの友/神を仰いでわたしの目は涙を流す。」
(ヨブ記16章20節)
神の為すことは時に不条理であり多くの災いをもたらします。その意味を「なぜ。」と人間が聞いても、神はそれに答えてくれることはないでしょう。
創造に立ち会うことなく、神のよって造られたものでしかない私たちには、神を信じて、いつか神が私たちを助けてくれること信じて、天を仰ぎ、涙を流しながら祈ることしかできないのです。
「神に祈るなんて。そんなこと出来はしない。」と沢山の方々がいうかもしれません。
でも多くの被災された方々は、その日、次の日、またその次の日も、そして今もきっと手を合わせ祈っているに違いないのです。「助けてください。」と
その祈りこそ、救いなのです。
元旦の新聞に皇后陛下が昨年お読みになった和歌が掲載されていました。
その一句を紹介します。
「生きているといいねママお元気ですか」文に項傾(うなかぶ)し幼な児眠る。
これは昨年(2011年)3月31日に読売新聞に掲載された「ママの帰りを待っている、入江を見つめる女児、父の携帯握りしめ」という記事に心を打たれて詠まれたものです。
宮古市の昆愛海(まなみ)ちゃんは当時4歳で今5歳(2021年では14才)の女の子。幼稚園からお母さんと帰宅した直後津波に襲われ、両親と妹とともにさらわれました。愛海ちゃんだけは偶然網に引っ掛かり助かりましたが、お父さん、お母さんと妹の蒼葉ちゃんは行方がわからないということです。
その愛海ちゃんが「ママに手紙書く」と言って、こたつの上で1時間近くかけて書いた手紙と、その手紙の上に項を傾け眠ってしまった姿が新聞で紹介されたのです。
幼子の悲しみは深いものがあるでしょう。幼くてまだよくわからないのかもしれませんが、「ママお元気ですか」の一言に涙が流れます。
このような悲しみが幾万と生み出されているのだと思います。
いや身近な死にはすべてこのような悲しみがあるのだと言えるかもしれません。
私にとって救いは、皇后陛下が、愛海ちゃんの姿に、その純真さ、可憐さそして健気さ等のすべてに心を打たれ、遠く距離は離れているけれど、慈しみの眼差しで見ておられることです。
愛海ちゃんもきっと「お母さんと会いたい」と小さな手を合わせて祈っているに違いないと思うのです。
皇后陛下も「会えるといいね」とやはり祈ったに違いないと、私は思うのです。
そし3月31日、偶然見た、この記事の載った新聞を前にして、私も涙し、祈ったのです。
私は、これらの小さな祈りに、神を前にしての、神の不条理な業をも前にしての祈りに、人間の救いがあると考えるのです。
そして、悲しみにある人に寄り添い、やさしい眼差しを向けている皇后陛下の姿、いやそれだけではありません、被災した人々を支えようとしている。すべてのボランティアや支援者の方々の姿に神様の慈しみを感じるのです。
最後に詩篇の23編をお読みします。
【賛歌。ダビデの詩。】
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない
主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける
わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる
命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。
以上が2012年1月29日の説教です。この時からも9年以上に時間が経ちました、その思いは今も変わることはありません。改めて東日本大震災のからの10年の月日を思い、神様に「助けてください」とお祈りいたします。
遠藤未希さんの遺体は震災の翌月4月23日志津川湾にある荒島の北東約700メートルの地点で捜索隊によって見つかっています。三浦毅さんは行方が慰安でもわかりません。(河北新報の報道より)
コメント
コメントを投稿