被造物としての時間(令和に年号が変わることを契機として時間について考えました。)



   一昨年5月の説教です。日本では年号が平成から令和に変わりました。そのことを契機に私たちにとって時間とは何かについて考えて説教をしました。                                2019/5/5 20

                                     礼拝説教

        

           「被造物としての時間」 

 

今日は5月5日。子供の日です。十連休は明日で終わります。 

それ以上に「令和」という元号が始まって五日が経過したことの方が注目されています。

4月1日の新元号発表以降、日本では新元号がきまったことですべての耳目がそのことに集中しているように思われます、とりわけ「令和」という漢字2文字が万葉集を典拠にしていることから、多くの国民が愛国心をくすぐられ喜んでいるように見えます。それは最近の東アジア情勢を反映している感情の現れでもあるでしょう。とりわけ中国の経済的な影響力が増大する中で、相対的に低下した日本の立場への鬱屈した思いが、今まで中国の典籍を根拠にしていた元号を日本の古典から選ばれた漢字へと変えることに、溜飲を下げ喝采を送ったのだと思います。 

 元号とは時間の単位である「年」を「年数」として数え、時間の経過を計測し、記憶すするための方法のひとつです。 

 年数を計測する方法は2つあります。 

一つが「元号」です。これは古代中国の皇帝が自らの治世の時代を表すために用いたものです。日本では大化の改新で「大化」という元号が制定されたのが始まりです。この元号は皇帝や天皇の代替わりや政治的な変革、天災などの事件によって改められ、名称も変えられます。 

二つは「紀元」です。これはある出来事が起こった年を始めとして、それからの年数を数え続けていくというものです。どの様な出来事をはじめにするかということで、その紀元には一定に意味が与えられますが、時々の政権の変動や事件によって名称が変わり、数え直すということはありません。 

そのほかにも十二支で表す「干支」のように循環する数え方で年数を表す方法もありますが、これは年数を積み重ねて時間の経過を計測するものとは言えないでしょう。 

 「元号」はそれが変わることによって終わる「有限」の数え方ですが、「紀元」に初めはありますが「紀元前」ということで始まり以前の年数を示し、「紀元後」ということでは始まり以降の年数を示すことができ、過去にも未来にも広がる「無限」の数え方です。 

 「西暦」という私達が普段使っている暦はイエスキリストの生誕の始めとする紀元です。これはキリスト教紀元 563 年にキリストが 30 歳で復活したということで、生誕の年を計算し、その年を元年として定められたものです。無論当時は別の暦を使っていたわけでその暦の上で計算したわけです。 

 年数を数えていくということは、時間が続いていくとうことを意味しています。ただその続き方には、大きく二つの考え方がありました。イエスの時代主流だったヘレニズムの世界では「円環する時間」という考えが主流でした。無限は、はるか彼方にあるのではなく、今がまた帰ってくるという循環する時間 永遠の繰り返しに中で考えられていたのです。それは一年を単位とする時間が繰り返されることで時間が続いていくという当時の生活感覚とも一致するものでした。 

一方、キリスト教を生み出すヘブライイズムの世界では時間は直線的なものと考えられていました。循環して永遠に回り続けるのではなく、不可逆的に未来へとまっすぐ進んでいくものと考えられていたのです。 

 

創世記の第 1 章第 1 節は「はじめに神は天と地とを創造された。」となっています。 

 

現代に住む私たちは宇宙の始まりについての仮説を知っています。時間は、 宇宙の始まりであるビッグバンを起源とし、膨張と共に進んでいくものと教えられています。でも定常宇宙論というのもあり、宇宙な今までもまたこれからのも変わらずにあり続けるという考え方もありました。そうすると時間は始まりも終りもなく、永遠に進んでいるということになります。 

創世記では、神が始めから世界を創造し、時間もそれと共に始まったとされています。天と地が造られた、その瞬間に時間も神の業によって造られたものであり、天と地と同じく造られたもの、時間も被造物であるということです。 

この創世記の考え方は、当時の他の地域の創造の概念とは異なるものでした。他の地域では、神が世界を創造したという点では変わりないように見えますが、創造の時以前から神の世界があり、神の様々な営みや争う姿が語られ、そこにも時間があったことが想定されているのです。神自身が、ある一定の時間の中いて、この世界の創造を行うのです。神の世界の時間と創造後の人間の時間という質的な違いがあるかもしれませんが、神は時間に支配されているのです。 

創世記では、神は時間を超越しています。神は時間以前にただ一人の神として存在し、そして天と地と時間を生み出す業によってその存在を明らかにしたのです。創造がなければ神自身も存在を知らせることはできませんし、神が存在する理由もなかったといえるでしょう。 

神はその後自ら創造した時間の経過とともに、様々な被造物を造りはじめます。 

一日目は「光と闇」二日目は「おおぞら」 

三日目は「陸と海、青草と種を持つ草、種のある実を結ぶ木」四日目は「昼と夜」 

五日目は「海の生き物と水に群がる生き物、そして鳥」六日目は「地の獣と家畜、地に這う物」 

     「人」 

七日目には、神はすべての作業を終わって休まれます。  この様に、同時に、一度に創造したのではなく、時間という次元に沿って、様々なものが少しずつ創られていくのです。被造物は時間の進むのに沿って次々と生まれ、いのちを与えられた者は、その命を時間の中で生きていくということが宿命づけられているのです。 

と同時に、時間は神が創造したものであり、時間に従って生きていくということは、神に従って生きていくということも意味しています。時間はただの抽象的な尺度、意味がなく時を刻み世界を支配するものではないのです。天と地が混沌からから生み出され、神の業を示す舞台となったように、時間も時間のなかった世界から神に意思によって生み出されたものであり、神の業を示す舞台となったのです。 

 

詩篇 90 篇 2 節から 4 節にはこうあります。 

「山がまだ生れず、あなたがまだ地と世界とを造られなかったとき、とこしえからとこしえまで、あなたは神でいらせられる。  

あなたは人をちりに帰らせて言われます、「人の子よ、帰れ」と。  

あなたの目の前には千年も/過ぎ去ればきのうのごとく、夜の間のひと時のようです。」 

 

神は時間を創り出した者たるがゆえに、時間を超越しています。 

創造の前から存在し、千年の時も一瞬でしかないがごとく、時間の世界を超えた存在なのです。 

 

また 9 節には  

「われらのすべての日は、あなたの怒りによって過ぎ去り、われらの年の尽きるのは、ひと息のようです。」とあります。 

 

神は私たち人間の一人ひとりの時間、生まれそして死に行く時間をも、その業のなせるものとし、神にとっては「ひと息」の様な時間の中で私たちを「ちりに帰す」こともできるのです。 

私たちの生き死が神の業であるとするならば、人間が時間と共に創りだす「歴史」もまた神の業のうちにあると言えるでしょう。時間の中で一度きりの、二度と繰り返しのきかない出来事によって「歴史」は刻まれていきます。私たちが、生と死を繰り返すことができないように。それは神が時間を造られ。それを繰り返しのきかない、戻ることのできない、不可逆的な直線として生み出したからなのです。と同時にその過ぎ去る時間によって神は命あるものに生と死を与えることで、歴史に神の業を反映させようとしているのです。 

新約聖書でのイエスの十字架での犠牲は、その様な神の業である「歴史」に神自身が関わり、時間が不可逆であるが故に克服できない死から、私達を救済するためのものであったのです。 

イエスははじめから時間のことを強く意識しています。「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、  

「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。」( マルコによる福音書 1 章 14 節 15 節) 

 

神の国を待望するのは、時間が刻む歴史のなかで多民族による抑圧に苦しめられ続けてきたユダヤの民の願いでした。ただイエスはユダヤの民を救うためだけに宣教を始めたわけではありません。時間に支配されることで、不可逆的に時間によって死に至らしめられている人間を救うために宣教を始めたのです。 

 

さらに:ヨハネによる福音書 17 章 1 節から 3 節にはこうあります。 

「これらのことを語り終えると、イエスは天を見あげて言われた、「父よ、時がきました。

あなたの子があなたの栄光をあらわすように、子の栄光をあらわして下さい。  

あなたは、子に賜わったすべての者に、永遠の命を授けさせるため、万民を支配する権威を子にお与えになったのですから。  

永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。」  

 

永遠とは、時間を生み出した神を表すものでした。それをイエスは自らが賜ったものたち、自分を信じる者たちに授けさせてくださいと祈るのです。と同時にそのためには自分に、十字架の犠牲を得て、復活することで、神の栄光を表させて下さいとも祈るのです。ただここでの命とは、私たちの時間に支配された命ではありません、イエスを知り、神を信じる者が授かる信仰による命です。信仰によって時間から脱却できるということです。 

 

神が創造した時間から、イエスの信仰によって脱却することができ、神のみが表していた永遠の世界へと行くことができるというのです。それは創造の時から直線的に進んできた時間の終りが来たということです。時が満ちるとは、直線的な時間が終わる時が来るということなのです。 

いや神は、この「時が満ちた」とイエスが預言し、自らを十字架の導くことを その創造のはじめから計画していたのです。この時を迎えるために、直線的に時間の線を引いていたのです。 

時間は始まりの時を持っています。でもその先は未来に向かって限りなく伸びていくわけではないのです。 

 

現代の私達は様々な科学的な探究や仮設の提示から時間は無限に伸びていくものと考えています。最新の宇宙論では膨張する宇宙はいつか収縮へと転じ、始まりの前と同じ無の世界に帰る、そうすれば時間も終りの時を向かえることになるという仮説もあります。 

ただ時間が直線的で無限であるというのは、私たちの命が一回限りで 死ぬことによって無に還ると信じていることと関係しているように思います。人生が不可逆的であるという実感から時間が不可逆的であると信じ、また一人の人間が死んだとしても、その時生きている他の人間にとっては、時間はまた過ぎていくという、世代のつながりからその無限性を見ているように思います。 

しかし、もし命が輪廻転生することを信じているとすれば、時間は不可逆的ではなく、直線的でもなく、ぐるぐると円環し、無限は果てが無いということではなく、円の中での観念にすぎないということになるでしょう。 

ひとりの人間、たとえば私の誕生と死を考えたとき、時間は無限ではありません。人生という限られた時間でしかありません。その限られた時間を直線的に過ぎていくものが時間です。またそれは戻ることも止めることもできません。 

神が創造した時間の上に 点ともならない一瞬の命をいただいているにすぎません。 

でも、この命が不可逆的であり、与えられた命であるが故に死を免れることが出来ないという事実にこそ、私たちがイエスを見、イエスを信じ、イエスを神の子と信じ、神を信じる根拠があるのだと思います。 

 

コロサイ人への手紙 1 章 22 節から 23 節にこうあります。 

「しかし今では、御子はその肉のからだにより、その死をとおして、あなたがたを神と和解させ、あなたがたを聖なる、傷のない、責められるところのない者として、みまえに立たせて下さったのである。  

ただし、あなたがたは、ゆるぐことがなく、しっかりと信仰にふみとどまり、すでに聞いている福音の望みから移り行くことのないようにすべきである。この福音は、天の下にあるすべての造られたものに対して宣べ伝えられたものであって、それにこのパウロが奉仕しているのである。 」 

 

死を避けられない、一回限りの人生とは何か、その疑問にパウロは答えています。信仰に踏みとどまり福音の望みから移り行くことがなければ、聖なるものとして神のみまえに立つことができるのです。そして時間の故に不可逆的な人生を終えたとしても、それは肉の人生の終わりに過ぎず、永遠の命を生きることができるのです。 

 

時間とは何か。私たちは 3 次元の世界に生きています。世界は広くそのすべてを実感することはできませんが、その広がりを想像することはできますし、身近なものであれば見ることも触ることができます。しかし 4 次元目と言われる時間については今というその瞬間しか知ることはできません。その感じた瞬間に現在は過去となって過ぎ去っていきます。

見ることも触ることもできません。神はなぜその様な時間を創造されたのか。その疑問が消え去ることはないでしょう。 

でも神はその時間の中にイエスの時代を創り出し、イエスに「時は満ちた」と言わしめました。それは揺るぎなき歴史的事実です。それは時間の進む中で被造物である人間が歴史を積み重ねるなかでの出来事です。その出来事によって、今生きている私たちをも救ってくださっているのです。 

イエスは「時は満ちた」ということで」時間に終りが来たと述べました。その言葉は今も生き続け、私たちに語りかけ、私たちの時間が終わるように働きかけているのです。 

神は、終わるべき時間をいまだ終わらせずに、時間の続く限りイエスを信じよと私たち人間に働きかけ、救いの道を示し、招き続けているのです。 

 

「令和」という元号が始まっています。今天皇制と元号が我が国の多くの人に親しまれていることは事実でしょう。でも元号が時間を統治の対象にしようとした制度であることは、変わらぬことのない事実です。時間は神が天地創造の時に創りだした被造物にひとつであり、時間を支配できるのでは神のみなのです。 

神による時間は直線的に伸び続けるように思います。すべての人間が救いにあずかる時が来るまで。 

 

 


コメント

このブログの人気の投稿

青天の霹靂 追悼=佐々木力 寄稿=野家啓一

助けてください