「わたしの行いによって信仰を見せてあげよう」

一昨年行った説教の続編です。


令和3年7月18日

仙台キリストの教会礼拝説教



「わたしの行いによって信仰を見せてあげよう」

―早坂啓子姉妹を偲んで(2)―

細井 実


7月6日、夫婦2人だけでは食べきれないほどのどら焼きが届きました。送る主は早坂貞彦さんでした。一昨年の6月に昇天された早坂啓子姉妹の弟さんです、そこには1通の手紙が添えられていました。


「拝啓

梅雨の候と申しながら。山津波、コロナと災いの話題の絶えないこの頃です。

細井様ご夫妻様にはつつがなくお過ごしでしょうか。姉の帰天の六月二十七日から二年となりました。

細井様には長年にわたる家族以上に姉を心身ともに暖かく支えてくださいました。終の棲家とした暁星園に入るまでもいろいろご心配いただきましたし、お別れ会にも心からなるメッセージを賜りましたこと等々深く感謝申し上げます。

ご報告ですが、東北大への検体に任を果たし秋に私のところに遺骨が戻って参りました。

埋葬先を姉は東北大合同慰霊所と考えていた様でしたが、姉の意に反し、妻の両親の眠る鶴ケ谷カトリック墓地に早坂の墓を求めささやかな早坂の碑を建て先に入ってもらいました。

地図を同封しましたが、東鶴ケ谷の山頂の太平洋の眺望の公園墓地です。

勝手な申し分ですが、もしよろしかったら散歩がてらお参り下されば、姉もうれしかろうと思います。どうぞ無理でなく・・・・

(その節はお電話いただければご案内させてください)

細井様ご家族については、姉と会うたびいつもお話しを伺っており、わたしまでもつい甘えてしまい、失礼ご容赦ください。

コロナ禍の中どうぞご自愛くださいませ。」

以上が全文です。


不思議なことがありました。

このひと月ほどあるUSBメモリーを探していたのです。一昨年まで使っていたパソコンで作成したドキュメントを保存したものです。それが手紙が届く2日ほど前にふとしたことから見つかったのです。早速再生してみました。しかしそこには4つの文章しか保存されていませんでした。何かの手違いで消去してしまったのか、記憶違いなのかはわかりませんが、探している文章はそこにはなかったのです。少々落胆しながら、残された4つの文章を再生してみると、一つは早坂啓子姉のお別れ会での弔辞。もう一つは「地に伏して、拝する」―早坂啓子姉妹を偲んでーと題した説教の第一稿、もう一つは実際に使った最終稿だったのです。「そうか早坂姉妹が昇天して2年が経ったのか。」とUSBメモリーの文章を再生しながら思ったのです。


早坂貞彦さんからのお手紙をいただいたとき思わず驚きました。なぜあのUSBメモリーには啓子姉妹を追悼する文章しか残っていなかったのだろうか。原因はどう考えても思い当たりません。

でも何かの導きがそこにあったように思うのです、むろん私の衰えた記憶が生み出した幻想と言えばそれまででしょうが。

啓子姉妹のけっして恵まれたとは言えない生涯は、死後遺体を東北大学医学部に献ずるという強い意志の下で閉じられました。その意志が成就し、弟貞彦さんのもとに遺骨が返され手紙にあったように貞彦さんの家族が建立した墓碑のもとに収められました。

天国でイエスの元にいる啓子姉妹は、やっと地上での安住の地を得ることができたと貞彦さんに感謝しているように思います。


一昨年の礼拝でも紹介しましたが、お別れ会での私の弔辞をお読みします。


「惜別の辞」

「啓子さん、啓子さん、早坂さん。」いくら呼んでも。もう返事はありません。いや、いつもは「まことさん、元気。」とあなたの方から声をかけてくれるのでした。でも、もう、その言葉を聞くことはできません。

「なぜこんなにも早く、それも駆け足のように急いで逝ってしまうのですか。」

6月27日の午後のことでした。

弟の貞彦さんから電話がありました。電話口の向こうからは「姉が亡くなりました。」という少し震えた声が聞こえました。実はそれはその日二度目の電話でした。午前中に啓子さんが入院したとの連絡があり、お見舞い行こうとしているやさきでした。

私は思わず「そんな、ばかな。」と大きな声をだしてしまいした。入院と聞いてから3時間も経っていなかった。そんな急な訃報に驚き、狼狽し、ただ唖然とするばかりでした。

「そんな、ばかな。」

緊急避難として入ったショートステイから、終の棲家とできる特別養護老人ホームに移り住むことができたばかりでした。それはあなたが、かねてから入りたいと願っていた施設「曉星園」でした。引っ越しをし、市営住宅の荷物の整理が終わったら、とたんにあなたは召されたのです。

「これからだったのに。」

そんな悔しい、やるせない思いを抑えることができません。感情はたかぶり、行き場を失います。

啓子さん、あなたはとびっきり「やさしい」人でした。

いつも周りの人を気遣い、その悲しみや苦しみに寄り添ってくれました。

私の母が90歳近くになって重い認知症を患い施設に入っていた時、遠いところを、けっして丈夫でない足腰にも関わらず、訪れてくれました。「琴子さん、琴子さん、元気、元気。」、母の名を呼んで慰めと励ましの声をかけてくれました。母の目には薄っすらと涙が潤んでいたように思います。

5月22日は私の娘の命日です。あなたは抱えきれないくらいたくさんのお菓子を持って訪ねてくれました。その日には娘をしのぶために、同級生がたくさん集まります。娘をしのぶという名目で、小学生時代や中学生時代の思い出を語り合い、賑やかにすごしていくのです。そのことを知っていて、あなたは、彼らに感謝の気持ちを伝えるために、わざわざたくさんのお菓子を買ってきてくれるのです。

啓子さんは、仙台キリストの教会員でした。かつて教会に住んでいたことがありました。教会の要として会堂の管理や礼拝への奉仕を熱心にしてくださいました。その後少し遠い市営住宅に移りましたが、それでもバスを乗り継いだり、タクシーを利用して礼拝に参加しました。教会の帰りは、私たち夫婦が自宅まで車で送りました。時々部屋に招き入れられお茶をごちそうになりましたが、不思議とただその部屋に座っているだけで、気分が落ち着き、すがすがしい気持ちになるのです。言葉少なげだけれど、啓子さんが醸し出す存在感、雰囲気とでもいうものがそう思わせるのです。それはあなたの「やさしさ」が生み出す空気の感触のようなものでした。

最後の住み家となった「曉星園」でも、きっと自分をさておいて、職員やほかの利用者を気遣い、声をかけたり、励ましたりしていたに違いありません。わずかな期間しか一緒に過ごすことができなかったけれど、きっと皆あなたに感謝しているはずです。そして、その「やさしさ」を忘れることはないでしょう。

「もうそのやさしさに触れることはできないのです。」

啓子さんが自ら語ることは少なかったけれど、その生きてきた道筋には、苦悩にあえぐ時、悲嘆にくれる日々、そして多くの艱難があったことを聞いています。でもそれをただ耐えるのではなく、神様に出会うことで明日への礎にと変えてきたのだと思います。

「やさしさ」の源は、その苦悩や悲嘆、艱難にこそあったのではなかったか。

そう思うと、あなたの「やさしさ」には、ただただ首を垂れるほかありません。

また、あなたの「やさしさ」に2度と触れることができないと思うと、涙が止まりません。

もう5月22日にお菓子が届けられることはありません。

その「やさしさ」の空気で満たされた「曉星園」の部屋を訪ねることはできません。

「まことさん、元気」と呼ぶかけられることもありません。

そして妻の名や、息子、孫の名を呼んで「元気」と尋ねられることもありません。

でも、

念願だった「曉星園」を文字通り終の棲家とすることができたこと。

施設に居ながらにして神様への「礼拝」を守ることができたこと。

きっと、あなたの「やさしさ」を受け止めることのできる職員に囲まれていたこと。

すべての片付けも終わり、「これでやっと安心できた。」と思う日をすごしていたこと。

そして、きっと悔いを残さず、その時を迎えたこと。

神様は あなたの生涯のことを思い、そばにいてあなたの祈りを聞いてくれたのだ。

と思うのです。

あなたの生涯にはたくさんの悔恨があったとは想像します。でもきっと神様はその悔恨を打ち消すことの出来る、その時を与えたのだ。

と思うのです。

「そんな、ばかな。」と狼狽し唖然とするのではなく、ただ嘆き悲しむのではなく、「これでよかったのだ」

と思うのです。

啓子さんの生涯を支えたもの、それは神様への愛でした。神様から与えられた愛でした。その愛があるからこそ、苦悩と悲嘆と艱難を、そして悔恨をも「やさしさ」に変えて生きていくことができたのだと思います。

啓子さん、あなたは私たちに「やさしさ」とは何かを示してくれました。「悲しみや苦しみに寄り添うこと」とはどうすることか教えてくれました。

そのことに心より感謝し

今天国へ見送りたいと思います。

「いってらっしゃい!」


そして言った

「わたしは裸で母の胎を出た。

また裸でかしこに帰ろう。

主が与え、主が取られたのだ。」

主の御名はほむべきかな。」

ヨブ記第1章21節」


今改めて啓子姉妹の生涯と信仰について思わざるを得ません。

詳しいことは述べませんが、幼くして両親を失い、父方の実家で育てられます。小学生の頃実家の祖父が罹患していた結核に感染し脊椎カリエスを患うことになりました。その後長い入院生活を送ることになりますが、その時高橋英子姉妹と知り合い信仰に導かれます。二人して茨城県の老人施設で働いていた時、縁あって私たちの教会の牧師であった馬渡和良兄弟に誘われ、促されて二人して仙台に移られたのです。仙台では障害者の授産施設で働き、一時は教会にもお住まいでした。

その幼いころの境遇を考えると、どれだけ辛く、淋しかったか。想像を超えるものがあったと思います。しかし私たちがそのような境遇について聞かされることはあまりありませんでした。聞かれれば答えたかもしれませんが、進んで語ることはなかったので私たちも聞くことはできませんでした。先の説教でも述べたように、弟貞彦さんから聞かされることでその辛い人生について知ることができたのです。

何故信仰に至ったのか、そこには、きっと信仰の証がはっきりとあったに違いないのです。無論理路整然と説明できるようなものではあり得ないでしょうし、すべてを言葉で言い切ることなどできないしょう。でも聞いてみたかったという思いは 昇天から時間がたった今だからこそ募るように思うのです。

でも証が信仰の表れであるとするならば、このよう聞いてみたかったという問いは浅はかな問いであると言えるかもしれません。


ヤコブの手紙にこのような箇所があります。

ヤコブの手紙2章 17節から20節

「信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。

しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある」と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。

あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。

ああ、愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。」


信仰の証は、行いを伴わなければならないのです。

惜別の辞で述べたように、啓子姉妹はその普段の生活で自然に「やさしさ」を行いで表されていました。決して怒ることなく、人を差別することなく、人の苦しみや悲しさに静かに、それも少し笑みを含んだような穏やかな表情で寄り添ってくれました。多弁や饒舌とは無縁の言葉少なく語りかける様は、知らないうちに涙を止めてくれました。

生活においても貧しくはあったでしょうが福祉施設で長く働いていらしたことが示すように、言葉どうりの「清貧の暮らし」であったように思います。


啓子姉妹から信仰の証を言葉で聞くことはできませんでした。聞きたかったという思いは募りますがが、それでよかったのだと思います。聞きたかったというのは、もっとたくさんお話しを聞き、語りかけ、もっと啓子姉妹のことをもっと知りたかった、もっと理解したかったという私の反省を含めた身勝手な思いがそう云わせたのです。


ヤコブが求めたように、啓子姉妹は行いの伴う信仰をその生涯守り続けたに違いないのです。


また次の聖書の言葉について今回もどうしても考えざる得負えません。


ローマ人への手紙5章 1節から4節にはこうあります。

「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。」


いままさに絶望の淵に立っている人、悲しみに沈んでいる人に「患難は希望を生み出す」などと慰めたら逆に「ふざけるな。」と言葉を返されるでしょう。絶望するのは絶望する前の絶望していない自分がいるからです。悲しむのは悲しむ前の悲しんでいない自分がいるからです。自分の運命の不条理や不合理に涙するのは不合理や不条理だと思わずに済んだそれまでの人生があるからです、家族が失われて悲しむのは家族がいた生活が今まであったからです。喪失に打ちひしがれている人には今の喪失した自分しか見えていないのです。

「患難は希望を生み出す」とうのは、そのような地点に立った時にこれからどのように生きていくのかを問う言葉なのだと思います。これからずっと絶望や悲しみのまま生きていくのかという問いかけです。一度経験したことを消すことはできません。乗り越えるなどということも虚しい言葉に思えます。しかし、時は流れ、すべては記憶となっていきます。次の人生が記憶の上に重ねられていくのです。それがまた現実です。絶望なら絶望を記憶として、その上に今は絶望の縁には立っていない新しい自分を、新しい日常を重ねていくのです。

ではなぜそれが可能なのか。なぜ「患難は忍耐を生み出し、 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出す」と言えるのか。パウロは「神に対して平和を得ている。」からだと言います。絶対的な平和、どのような絶望や悲しみもそれらをも糧として生きていける平和が神から与えられているからだと言うのです。


20:ヨブ記1章 20節21節

このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、

そして言った、/「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。


ヨブは全てを失ったときこう祈ります。先の惜別の辞で最後にも述べた聖書の言葉です。

「患難は希望を生み出す」というパウロの言葉をヨブは知りませんでしたが、「神に対して平和を得ている。」ということはどういうことなのか、この言葉は語っ

ているように思うのです。

どのような絶望も悲しみも、生まれた後に重ねてきた人生、神から与えられた根源的な命とは別に、その上にその人が生きてしまった人生というものがあるが故に引き起こされることなのだということです。

根源的な命、神から与えられた命にとっては、絶望や悲しみは無なのです。地に伏して「わたしは裸で母の胎をでた。」と祈る時、そこには神に対する平和があるのです。それは私の命は神から与えられたのだという神への絶対的な信頼です。その信頼に気づくとき、私たちは「患難は忍耐を生み出し、 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出す」ということを知ることができるのです。


啓子姉妹は幼少の時から患難の渦中にあり、その生涯そのものが患難であったとさえいえるように思います。だからこそただ地にひれ伏し礼拝しつづけ、患難がいずれ希望を生み出すことを信じ続けてきたのだと思います。

絶望や悲しみの中にあって。神を信じ、神に対することで与えられる平和に至ることは簡単にできることではありません。またその平和を得るならば、神の前では患難は無とされ、ただの人生の出来事として患難を糧とし次の希望を得ることができるなどというのも信じることはできないかもしれません。

しかし啓子姉妹はその困難なことをやり遂げたのです。

身に起こる悲しみや苦しみをそのまま受け止め、それらを神への愛へと昇華していったこと、そして、そのような経験をもってしか養えないような「やさしさ」や「思いやり」をもって生きてきたことは間違いありません。

啓子姉妹の「やさしさ」や「思いやり」は神に対する平和を得、患難のよって生み出された希望の証なのだと思います。

それはヤコブに言葉にあるように「わたしの行いによって信仰を見せてあげよ」ということを体現しているのです。

貞彦さんからの手紙は、啓子姉妹がその希望の証としての献体を成し遂げ、太平洋の見える丘の墓碑に遺骨が納められたことを知らせてくださいました。貞彦さんのお姉さまに対する慈しみある行動に深く感謝しています。

啓子姉妹は、天国でイエスの御そばにありイエスからその人生にねぎらいの言葉をかけられているに違いありません。


最後は前の説教の言葉で結びたいと思います。

啓子姉妹は、裸で母の体よりでて、裸のまま生き、裸のままかしこに帰ったのです。

これほど清い、純粋な命はあるでしょうか。啓子姉妹のその生涯を讃えたいと思います。


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