神のみわざが、彼の上に現れるためである。

 2020 年が間もなく終えようとしている今日、Blogへの投稿を始めることにしました。牧師のいない仙台の小さな教会で、他の会員と共に礼拝説教を行っています。今までお話ししてきた説教をこのブログで紹介したいと思います。新型コロナウイルス感染症の災禍に怯えながらも立ち向かわなければならない私自身の心の支えとして、また皆さまの心の縁につらなることを信じて投稿していきたいと思います。



令和2年11月15日

「神のみわざが、彼の上に現れるためである。」

それは9月のはじめごろだったでしょうか、一冊の本が送られてきました。本の題名は「恭子と汗をかきながら」というものです。著者は恭子さんの母である下郡山和子さんです。

彼女を知ったのは確か私が27歳の時でした。ですから40年以上前ということになります。私は当時市役所に入ったばかりでしたが、前職の経験もあったからでしょうがすぐに障害のある子どもの担当となりました。当時障害のある子どもたちの就学義務化が目前となっていて、教育委員会では市立の養護学校(現在の特別支援学校)を設置する準備を進めており、それに呼応して民生局では学齢前の障害のある子供たちの受け入れについて検討していました。その政策づくりを担当したのです。幸い恭子さんは学校開設時に15歳となり就学可能でしたが、学齢を過ぎてしまった子供たちは行き場がありませんでした。重い障害のある子どもたちの居場所を造って欲しいという声があったわけですが、市はそれにはすぐには対応できませんでした。そのような声を上げる家族の方たちの中に和子さんはいたのです。

その本の「はじめに」ではこう述べられています。

「本書には、50年数年前に生まれた、重症心身障害児の長女恭子を挟んで、悩みつつ歩んだ夫と家族と私の歩みや、同時代を生きた障害者や家族たちの踏ん張りや苦労をお伝えしながら、今やっと獲得できた恭子の幸せな生活をお伝えしたいと思います。

そしてわが子が障害があるとわかったときばかりの、子育て真最中の若い親ごさんたちに希望を持ってほしい、元気を出して『闘ってほしい』という思いで書きました。」

ですからこの本はいたずらに障害を誇張し、その苦労や悲惨さを語ることで同情や哀れみを求める内容とはなっていません。むろん成長の節々に出会う社会の不条理や矛盾に悩み途方に暮れるさまも書かれはしますが、その都度彼女が、その不条理や矛盾と向き合い、それを乗り越えるために自分を振るい立たせ、行動してきたことの記録となっています。

恭子さんの出産は1963年のことでした。早朝破水が始まって入院しますが初産だからと放置され、夕方医師が内診したときは既に産道を出入りしていて酸素不足の状態であったと言います。出産後すぐに会うことはできず4日目に引き渡されますが、母乳をうまく飲めません。でも医師からは「飲ませ方が悪い」と言われるばかりでした。嘔吐が続いている状況で1か月検診を受けますが、「体重が増えないのも吐くのも、あなたのおっぱいが悪いせいです。」と言われ粉ミルクを進められるのです。

生後6か月頃せき込むので小児科を訪れますが、医師からは百日咳と診断されクロマイの注射をされました。当時教員だった和子さんは子守を頼んでいて、医者にはその子守の方が連れて行きました。その方が何年かのちにこう言いました。「顔を引きつらせて真っ黒になって苦しんだ。医者には口止めされ隠していた」と。

また目がひきつるようになり、医師からは「熱のない肺炎」としてストマイを注射されたこともありました。その後顔が「ピクピク」するので保健所や医者に連れていきますが「お母さん神経質じゃないか」と言われてしまいます。

一歳児検診ではぐにゃぐにゃした身体をみて「くる病」と言われ、整形外科の受診を進められます。しかし医師からは「たいしたことじゃない」「いろいろな人がいますよ。」と言われるのです。

これが当時の小児医療の現実です。誰も和子さんの心配や恭子さんの発達や生育に真摯に対応しようとはしていないのです。今から見れば唖然としますが、今でもどこかで放置されている子供と家族がいるように思います。

その後、ある整形外科医から大学病院を受診するよう勧められ、検査入院することができました。そしてようやく「脳性小児麻痺で両上下肢機能損傷、点頭てんかん」と診断されます。

診断が降りたからと言って、その後の進路が定められるわけではありません。

5歳の時には、国立の重症心身障害児の病棟が出来たからと保健師から入所を進められ、こう言われます。「こういう子がいると、弟さんがかわいそうですよ。学校に行く頃になるといじめられるし、結婚にもひびく・・・」

しかし和子さんはこう考えます。当時の施設は。障害児は不幸な存在、周りを不幸にさせる存在とされ、「『手のかかる障害者を排除し収容する家族救済』が前面に出ている。」「恭子の命の尊厳を踏みにじるわけにはいかない」と。そしてこう誓うのです。「恭子を社会から隔離するということ?それは子捨てじゃない。」「入所施設には入れない。」

学齢になると就学相談がありますが、当時、車いすなどはもちろんなく、学校に行ったところでおむつ替えをどうするのか、教室の椅子に座ることも出来ない。「ああ!」と考えているうちに「猶予しますか」と聞かれ、猶予してしまいます。次の年も同じように言われしょうがないなって思っていると、3年目には「就学免除の手続きをしてください。」という書類が届きました。その時また和子さんは考えます。「ええ!なんで!義務教育と言われているのに」問題なのは「この人たちに教育は無理だ」と決め込んでいることだ。「役に立たない子供に教育をしても、無駄だ」として枠の外に置いている。教育者たちは3年目には親に就学免除手続きを迫れば済むとしている。そして怒り心頭に達し「恭子の教育権は?憲法は国民の人権を守るためにあるのに。」と嘆きます。でも当時の状況からは免除手続きをするよりほかに道はありませんでした。

半世紀前の保健師や教育委員会の対応はこのようなものでした、むろん社会資本の未整備ということもあったかもしれませんが、その意識の根底には、あの相模原やまゆり園事件の植松死刑囚の考えを特異だと排除できない考え方があったともいえるのです。

10歳のころ弟の同級生の母親からこう言われます。「いっそ入院したときにそのまま死ね

ばいがったのに。」その時、その母親はまったく悪気もなく、すっかり同情した様子でした。和子さんはまた考えます。「私は怒りを感じるよりも驚きました。一般の人の障害者理解はそんなものかと…じわりじわりと広がる悲しみと共に、『この世間の理不尽と闘っていかなければならない』と覚悟が決まりました。現状を変えたかったのです。」と。

和子さんは同じ境遇にいる家族とともに「仙台市重症心身障害児(者)を守る会」を結成します。発足にあたってこんなことを記しています。「当時の女性は主体性を押し込めてしまっていて、自己主張もしない代わりにお互いを認め合うこともしない」「同じことを権威ある人や男性が言うと従うのです。女性である私が会長では会派はまとまらないだろうと思いました。」そのような結果、組織づくりには尽力しましたが別の男性を会長として会は発足します。本来ならば彼女が会長としてリーダーシップを発揮したかったのだと思います、しかし女性中心であった当時の活動において自分だけが突出することへの躊躇があったのだと思います。ここにも当時の彼女の苦渋が表れています、また子育ては母親の仕事という風潮が強くて活動も母親が主体であったのに、いざその活動を社会的に認知させるためには男性を表に立てなければならないという矛盾、このような矛盾もまた彼女に更なる活動を強いたのです。

会では就学保障と通所施設設置等を行政に要望することで活動を開始します。しかし国は入所施設の設置を進めており、重症心身障害児(者)が「通所施設に通いたい。」ましてや「教育を受けたい。」と要望することは、国の方針に従い入所施設の設置を要望している母親たちからも散々パッシングを受けます。そのような中で「地域で育てたい」という願いは「隠れているのであって顕在化させていかなければならない」のだという信念をもって会の活動を進めます。

仙台市立の鶴ケ谷養護学校が1978年に設置され、恭子さんは年齢からすれば中学3年でしたが小学6年に編入されます。むろんは初めての重症心身障害児の入学でしたから送迎や排せつ等の介助、教室活動への参加等多くの課題がありましたが、教職員と共に少しずつ改善していきます。でもそれは先生たちとの闘いでもありました。本にはこう記されています。「どんな重い障害があっても意志があります。意志を言葉で表現できない人は諦めてしまって内にこもり、体調を崩したり、また言葉で表現できなくても体が動く人は、激しく動き回ったり、自傷・他傷などの行動で示すことになります。不適切な行動には、必ず意味があります。行動障害はつくられるのです。しかし当時は知的障害のある人は「何もわからない人」として「こちらの意図に従うように指示し、従わせ、習わせて、躾けるのが教育なのだ」と考える先生方が多くいました。」

私は当時養護学校と同時に開所した「仙台市心身障害者相談センター」の職員となりました。学齢を超過した重度の障害児にも通う場を用意しようと職員間で相談し、隣接する幼児の通園施設の職員の協力を得て、相談業務の空き時間に10名近くの子供たちに通ってもらいグループ活動を行いましたグループの名前は「パンダ組」。彼らと過ごし、遊ぶ時間はたのしくてたまりませんでした。むろんこの試みは一時的なもので、同じ行政の中ではありましたが彼らの恒久的な居場所の必要性を訴える活動でもあったのです。そのころ恭子さんは養護学校に通い苦労していたのです。

1982年、恭子さんが19歳の時ようやく小規模ですが日中の居場所が市の施設の一角に設置されました。しかし当初は場所の提供だけでそれも10家族も通ってくると満杯状態となってしまう狭いところでした。運営費の補助もないので職員を雇用することも出来ずボランティアに頼ってどうにか運営することしかできませんでした。

その後、法に則っとり認可された障害者通所施設の設置を目指すこととなり、市の指導もあって社会福祉法人設置の準備を始めました。法人設置の自己資金を確保することが主な目的でしたが、最初に「後援会」を発足させました。

当時私は福祉行政からは離れていましたが、和子さんから強く誘われ、行政経験のあるボランティアとして 設置趣旨や規約、会員制度などの作成をお手伝いさせていただきました。

1992年には法人設置の認可がなされ、翌年には認可施設「仙台つどいの家」が開所します。重症心身障害者が通うことのできる施設として全国にも先駆けた取り組みでした。施設の玄関には「存在の重さ」という言葉を掲げました。

次の課題は地域生活を無理無く送れる資源としての「ショーステイの問題」」でした。恭子さんも利用したことがありましたが、「ショートステイは既存の巨大な入所施設を利用した集団支援で、重篤な介護の必要な人や自閉症の人が過ごす場所としては無理なのです。恭子も10日間預けただけで、重い褥瘡を患ってしました」と嘆きます。和子さんはその後  一対一でも対応できるレスパイトサービスと出会いその実現に邁進します.先ず民間からの資金援助を受け通所施設の敷地内にくつろぐことのできる住宅を設置します。有償ボランティアを募り施設職員の協力も得て宿泊や一時預かりの事業をはじめます。

その後彼女の強い要望を受け市の補助事業となりますが,当時市の障害保健福祉行政は私が担当していました。和子さんからたくさん意見をいただき、実際に事業の実態を見たうえで、関係部局と対応を協議して補助事業としたのです。

さらに利用者には「働きたい、お金が欲しい」という思う人が出てきますが、それに対してこう述べています。「働いてお金を得ることだけを追求しなくても、障害者の存在そのものが人間を触発し、哲学や科学を生み、社会を動かしている。それが彼らの生産性役割だ。」

障害者には生産性が無いということでその存在そのものを否定するような考え方があるとすればそれを明確に否定し、障害者の普遍的な人間としての価値を表す言葉となっています。

2004年には、重度障害者も入居できるグループホームを設置します。それまでグループホームは昼間は働いている障害程度が比較的軽い障害者の共同生活の場でした。国の支援費の上では夜間の支援体制は想定されていませんでしたが、職員がボランティアとして活動することで受け入れ態勢を整えます。恭子さんも開設と同時に入居します。

法人独自の取り組みですので十分な支援が出来るか不安の大きな門出でした。本にはこんな記述があります。「もし何かあったらどうしようという不安がよぎります。それでも、たとえ失敗に終わっても、一人の人間として、社会の一員として自立した生活の構築に挑戦実行すべきだと思いました。まずは、恭子が立派にグループホームで暮らせるという『成功体験を見せる』ことで、保護者や周囲の意識もかわるのではないかと思いました。」

ここには彼女の一貫した精神が示されていると思います。新しい取り組みは誰も歩んだことのない道を進むわけです。そこに不安が無いわけはありません、でも失敗を恐れることなく、歩む道の先にあるものを信じて挑戦していくという精神です。

その後。東日本大震災での大きな被害を克服し現在に至ります。

2019年、恭子さんは56歳になります。こんな記述があります。「恭子は肺炎で入院しました。恭子だけだはなく、利用者は加齢に伴い、様々な病気もするでしょう。重い障害のある人の、これから先の生活の質をどう維持するかが課題です。闘いはつづきます・・・。」「私はもう高齢で恭子よりも先立つことになるでしょう。何もできなくなります。しかし恭子は「その存在する力で人の心を動かしていくはずだ」と信じています。」

本書の最後はこのような言葉で終わっています。「だから希望を持ちたいのです。未来を輝かしいものにするかどうかは、当事者運動しだいです。差別の理不尽に気づいた者は、闘わなければなりません。それは拳を振り上げることではなく、伝えること、人とのつながりを作って、共に生きることをつくっていくのです。

障害者は存在することで役割を果たしています。人間は考える葦です。彼らに触発されて医療も福祉も社会学も哲学も進歩しました。確かに人間は本能的に他人のことより自分の身を守ることに専念する生き物です。理不尽を感じた当事者が、メッセージを出していかなければ差別はなくならないし、共生社会もつくれないと思うのです。

恭子の存在は、私たち家族にとって、家族全員が「人間とは何かを問い」それぞれの生き方を貫き、それぞれのやり方で闘うきっかけとなりました。」

和子さんは確か今年は81歳になります。恭子さんは57歳です。恭子さんを授かってから、その出産のときから和子さんは社会の不条理に出会いました。恭子さんの命が和子さん

にその不条理と闘う人生を与えたのです。


聖書にはある目の見えない人のイエスとの出会いの物語が示されています。


ヨハネによる福音書9章 1節から3節

「イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。

弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」

イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」


現在において障害をその人の罪の表れや両親の罪の表れであると信じている人はいないでしょう。しかし当時その原因を説明するような医学の知識はありませんでした。この目の見えない人は生まれた時から目が見えなかたのですから、なぜそのように生まれてしまったのかを説明する合理的な考え方はありませんでした。罪を犯さないようにする戒めの一つということもあったでしょうが、障害は罪の表れであるということが広く信じられていたのだと思います。

しかしイエスはそのようなある意味当時の共通する考え方、常識に対して、それを否定し「ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」と宣言するのです。

イエスはこう宣言した後、まさに「神のみわざ」を示します。


ヨハネによる福音書9章 5節から7節

わたしは、この世にいる間は、世の光である」。

イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた、

「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」。そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。」


イエスは自らが何であるかをこう説明します。「わたしは、この世にいる間は、世の光である」と。そしてまさに目の見えない人の眼を見えるようにし、彼に光を与えるのです。それはまさにイエスご自身を彼に与えともいえるでしょう。

「神のみわざが、彼の上に現れるためである。」という言葉はなにを意味するのか。

そのまま解釈すれば目が見えないのは神のみわざによるのであって、目の見えない人自身やその両親に責任があるのではないと慰めているのだと言えるでしょう。

しかし、その後彼の目を見えるようにしたというイエスの行為を見るならば、「目が見えない人として生まれてきたこと」が神のみわざであると言っているのではない、ということは明らかです。この目が見えない人は「イエスが眼を見えるようにすることができるという、その『みわざ』を示すために目が見えない人であるのだ」ということを示しているように思います。

でもそう考えると私は途方にくれます。

イエスと同時代を生き、イエスに出会った目が見えない人は神のみわざを示すための証人として目が見るようになりましたが、それは遥か昔のことです。イエスが人間としては生きていない今では、目が見えない人の目を見えるようにしてくれるものはいないのです。目が見えない人は目が見えないままでいなければならないのです。

現実はそのようになっています。医学の力による以外に見えるようにすることはできません。医学が及ばない障害があるならば光を得ることはできないのです。


この目が見えるようになった人は実家に帰りますが、近所の人は目が見えるようになったことを信じられません。パリサイ人は信じようとはせず、どうして罪びとであるイエスにそんなことが出来るのかとだと疑い、両親や本人を問い詰め、責め、ののしります。


ヨハネによる福音書9章 33節

「もしあのかたが神からきた人でなかったら、何一つできなかったはずです」。


彼はイエスのことをこう告白しますが、パリサイ人はさらに怒り、そして彼をとうとう家から追い出してしまうのです。

するとイエスが彼に再び出会います。


ヨハネによる福音書9章 35節から41節

「イエスは、その人が外へ追い出されたことを聞かれた。そして彼に会って言われた、「あなたは人の子を信じるか」。

彼は答えて言った、「主よ、それはどなたですか。そのかたを信じたいのですが」。

イエスは彼に言われた、「あなたは、もうその人に会っている。今あなたと話しているのが、その人である」。

すると彼は、「主よ、信じます」と言って、イエスを拝し

そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。


追い出された彼をイエスは迎え入れ 彼はイエスを人の子であると信じると告白するのです。それは、彼がこの世を見る目を与えられただけではなく、神を見る目を与えられたということを意味しています。

さらにイエスは自身の使命について語ります。神を見ることが出来なかった人々に神のことを知らせ、信じるように導き、パリサイ人のように神を見ていると信じているものにはその偽りの神を見えないようにするのが私の使命なのだというのです。

「わたしは、この世にいる間は、世の光である」ということは、実際に目を見えるようにして光を与えるということだけを示しているのでありません。神を見ることのできない人々に神を見ることが出来る光をお示しになるということなのです。

イエスが見えない人を見えるようにするということは 同時に神を知らない人々の信仰の目を開くということでもあるのです。


このように「神のみわざが、彼の上に現れるため」ということは、彼の見えない目を見えるようにするという「神のみわざ」を現すためだけではなく、それと共に信仰の目を開くという「神のみわざ」を現すためであるということを意味しているのです。しかしそう理解できたとしても、やはり、「神のみわざの恵」に直接預かることが出来たのは、この時代を生きていたからだと思うのです。イエスに会うことのできない、イエスの十字架での犠牲の後の時代を生きる障害者はどのようにして「神のわざの恵」をいただくことが出来るのか。


恭子さんは生まれた時から重い障害を持っていました。当時の小児医療の貧弱さが障害をさらに重くしたようにも思います。

障害のある子どもが生まれてくること、生まれざるを得ないこと、その事実は私たちの力で変えようはありません。私たちが命を得て生まれてくる限り避けられない事実です。命は神に与えられたものであっても、その命は、一つ一つ異なった命です。その異なりの一つとして障害のある子ども生まれてくるのです。それは誰のせいでもありません。人間のわざを超えた事実なのです。その意味で「神のみわざ」と言えるかもしれません。

でも私は、それが神が意図して選んだのだとは思えません。神が、その「神のみわざ」によって重い障害を与えたのだとは言えないと思うのです。そう思うことで慰めや安寧を得ることが出来ることがあるとしても、なぜそのような過酷な生が神によって強いられるのかその疑問を解くことはできません。命というものがある限り、それは誰にも、神にも解決することのできない問題としてあるのだと思います。障害のある子どもが生まれるということは、神にも避けようの事実なのです。

私も娘を15歳で失いましたが。それが神の意図したものであり、「神のみわざ」によって与えられた宿命であるなどと信じることはできませんでした。自分が遺族として選ばれたなどということも言えませんでした。私も何故という問いに答えを見出せず、教会に通えなくなりました。

でも絶望の淵に立たされたとき、それは「ただ絶対的な避けられない事実としてある」のだということに気づかされたのです。それは突然現れるのであり、神にもいつ起こるかはわからないものだと信じています。

しかしイエスが「神のみわざが、彼の上に現れるため」であるというとき。その事実にどう向き合わなければならないのか。

和子さんはつらい事実を受け止め、ものを言えない恭子さんがどのように生きていったらよいのか、どう生きるべきかをその生涯をかけて問い続け、その答えを求めて社会の不条理と闘かったのです。その闘いの歴史をその著書は表しています。恭子さんの人生は和子さんがいなければあり得ない人生でした。

和子さんは、恭子さんの重い障害に途惑いますが、手探りで夢中に育児に取り組みます。その姿は、恭子さんを得たことをごく自然なことと受けとめているように思います、そしてごく当たり前のこととして障害児を育てようとしているのに、この社会はいかに理不尽なものであるか、障害のある子ども育てることが出来ないような仕組みになっているかに気付くのです。

その時「『恭子さんの障害」は、「和子さんのみわざが、恭子さんの上に現れるため」にあると言えるように思うのです。むろんイエスが目に見えない人の目を見えるようにしたように、恭子さんを歩けるようにしたり、話せるようにしたりしたわけではありません。ただ歩けなくても話せなくてもごく普通の生活が出来るように、社会の不条理と闘い、今は「やっと獲得できた恭子の幸せな生活をお伝えしたい」と著書の冒頭で述べることのできる生活を得ることが出来たこと。それはイエスが目の見えない人に示した「神のみわざ」と変わらぬものだと思うのです。

また著書で示してきたように、その数々の闘いは、恭子さんのためだけではなく、同じ境遇にある方々の生活をも変える闘いでした。その闘いはあらゆる障害のある方に、どれだけ重い障害があっても普通に生活できるのだという希望を与えるものでした。さらにすべて人々に障害のある方々と共に暮らしていけるという可能性を示し、そうしていかなければならないという使命を与えるものであると思います。

イエスが述べた「見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」ということばの意味を改めて考えるならばこう言えないでしょうか。「見えない人たちが見えるようになり」ということは障害のある人たちが普通に生活できるようになることであり、「見える人たちが見えないようになる」とは障害ある方々が普通に生活できないと思っている世の人々にそのような考えを捨てさせることであると。


イエスは誰からも蔑まれ、差別されていた、目の見えない人にただ一人寄り添い、「神のみわざ」を示されました。

和子さん重い障害で生き延びるのに必死な、恭子さんに寄り添い、「和子さんのみわざ」を現されました。

このような比較は不遜なことかもしれませんが私にはそう思えたのです。

ここで改めて思うのです。

イエスが「神のみわざが、彼の上に現れるためである」と何故言ったのか。

今、改めて考えるのです。

「神のみわざ」とはなにか。

きっとそれは、誰のせいでもない、また神の責任でもない不条理と出会い、絶望の淵に立たされた時、その不条理と共に向き合い、寄り添い、一緒に涙を流し、立ち上ろうとするときに手を引いてくださり、同じ方向を向いてともに歩んでくださる方がいるということです。

「現れるためである」とはなにか。

それは、きっと私たち一人ひとりがその「神のみわざ」を現すために、命を与えられ、生かされている、存在しているということです。私も、また私の家族も、教会に集う一人ひとりも 和子さんも恭子さんも、障害がるある人もない人も、世のすべての人たちが「神のみわざ」が現わされるものとして生きているのです。

どのような悲しみや苦しみや、憤りや、悔しさに出会っても、いつも神が共にいてくださるということを示す証人として生きているということです。

私たちはパウロが、その手紙でこう祈っていることを知っています。


ローマ人への手紙 15章 33節

どうか、平和の神があなたがた一同と共にいますように、アァメン

コリント人への第一の手紙16章 23節、24節

主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。

私の愛が、キリスト・イエスにあって、あなたがた一同と共にありますように。

コリント人への第二の手紙 13章 13節

主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように。

ガラテヤ人への手紙6章 18節

兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるよう


これらは皆それぞれの地にあってキリストの福音を伝えるために、様々な苦難に直目している信徒たちにあてた手紙の最後に綴られる祈りです。

共にあること、それが神への私たちの唯一の信頼です。


和子さんは恭子さんと常に共にいました。

神は私たちと常に共にいます。

そのことを信じて・・・・。

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