希望への祈り
昨年の5月、新型コロナ感染症の感染対策として緊急事態宣言が出ていたころ、どう生きたら良いのか悩みながら考えた説教です。
令和2年4月5日礼拝説教
「希望への祈り」
仙台キリストの教会 細井 実
世界は新型コロナウイルスにおびえています。
西欧では外出を禁止され、人と触れ合うことも制限されています。
人々は屋内に閉じこもり、孤立することを強いられています。人類が数千年かけて築き上げてきた文明が脅かされているのです。文明は、それまで分散し家族単位で孤立していた未開の人類が他者に出会い、言葉を交わし、共同して働くことを発見したことによってはじまりました。また都市を形成することで商業活動が隆盛となり、商業資本が蓄積され、経済の礎が築かれました。その後の産業革命や現在のグローバル経済も人々が生産活動や国際的な商取引に集団として参加することで成り立っています。人類の歴史の歩みは、人類が孤立することから飛躍し、他者とお互いの知性や経験を重ね合わせ、世界があたかも一つの生物のように有機的に結びついていくことを目指していたと言っても過言ではないでしょう。
今のような孤立強いる状態は、ワクチンや治療薬の開発によりそう長く続くことではないのかもしれません。またインターネットで結びついているから孤立ではないということかもしれません。しかし、もしこのような状態が何時までも続くとしたらどうなるのでしょうか。私たちは我慢し続けることができるのでしょうか。人間同士の交流は根源的な欲求であり、それぞれがバラバラなままでは、社会の継続性が破壊されてしまいます。そのことは生活を支える経済活動がこの1か月を超える程度の期間停滞するだけで、多くの不安や焦燥が世界中に蔓延していることでも明らかです。
今私たちはどのようにこのことを受け止めどのように行動すべきなのでしょうか。
私には良くわかりません。
何故このような災禍が人類に襲い掛かったのか、私たちが経験した大震災においても。その答えはどこにもないのだと思い知らされました。でもその時は今回とは逆に人と人が寄り添うことの大切さを学びました。日本中のまた世界中の人々の憐みが被災者に施されました。涙にくれる人の隣には誰かがそばにあり、ともに泣いてくれました。仮にいつも誰かがそばにいなくても被災者同士が声を掛け合い励ましあうことができました。原発被災者への差別的な発言に心を痛めているということや、仮設住宅や復興住宅での孤独死のことが報道されたりし、物質的な復興では解決できない課題があることを知りました。でも私たちは、そのような事実を知り、被害者や孤独死した方に思いを至らせることで、より深い理解と同情そしてさらに寄り添うことが必要だったのだと、痛感したに違いないのです。
しかし今回の災禍は、一国の一地方の出来事ではなく、世界中に襲い掛かったものです。世界中の国々が国境を閉じ、流行している国からの入国を拒み、鎖国状態になっています。いつ罹患するかもしれないという不安と恐怖がすべての人々の精神と行動大きな影響を与えています。感染症対策商品の買い占めは普通の生活を脅かしています、マスクを求めて長蛇の列を作ったり、ドラッグストアーを流浪したり、あるいは奪い合ったり、そのことで障害事件が起こったりする事態さえ起っています。また罹患の疑いがあると咳やくしゃみをする人に暴言を吐いたり暴力を振るったりすることさえ起っているようです。また病に侵されてしまった人、その疑いのある人への誹謗中傷や差別的言動等も広く行われているように思います。アメリカと中国にみられるように国家のレベルでもあり得ないような非難の応酬がなされています。
大震災という災禍では心を寄せあった人々が、感染症という災禍では疑いと猜疑心に苛まれ離れ離れになっていく。この現実を目の当たりにして、どうすればいいのか。私たちに何ができるのか。教会に集い何ができるのか。
私たちは偽善者であってはならないでしょう。私たち一人一人にも感染症に対する恐怖はあるのです。もし罹患した人やその疑いのある人がいれば避けるでしょう。
いや、流行を抑えるためにはそうしなければならないのです。
マタイによる福音書8章 2節 3節
「すると、そのとき、ひとりの重い皮膚病にかかった人がイエスのところにきて、ひれ伏して言った、「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。
イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。すると、重い皮膚病は直ちにきよめられた。 」
重い皮膚病とは当時感染症と考えられていたハンセン氏病でした。イエスもそのことは十分知っていました。誰もがうつるのを避け触れようとはしない病人にイエスは手を差し伸べるのです。でもイエスにはできても、私たちに同じことができるわけではありません。ましてや感染症に罹患した人と接触することは感染を広げることになるので避けなければならないと世界中で喧伝されているのです。でもイエスのように直接触れることはできなくても 私たちは心でふれあい救いを求めて祈ることはできるはずです。
カトリック教会の教皇フランシスコは3月18日にち「憐み深い人々は幸いである、その人は憐みを受ける」(マタイによる福音書5章7節)によって世界の人々に語りかけています。
憐みを抱くことは幸福の原因である。なぜならその結果として憐みを受けることができるからであり、その相互性にこそに神の恵みがある。人間はもともと負債を持っており憐みが必要なのだ。憐みはあらゆる霊的歩みの唯一の到達点であり、愛の最も美しい実のりであるというのです。新型コロナウイルスの災禍にある世界に向けて教皇はすべての人が憐み深くなることが必要であると、言外にはそのことによって私たちはこの災禍に耐え、克服することができるということを伝えようとしているのです。大震災の時、絶望の淵に立った人たちのほとんどは天を仰ぎ、ただ「助けてください。」と祈ったに違いありません。そして被災こそしなかった人々もやはり星空に向けて手を合わせて祈ったに違いないのです。被災した方々の無事と平安を。
教皇のこの言葉も 今世界中を脅かしている災禍を前にしての祈りの言葉です。憐み深く世界のすべての人々があることができるようにと、神の前に跪き祈っているのです。今世界中の人々がこの災禍の終焉が訪れることを祈っていることだと思います。
私たちはどのように祈ればいいのか。主の祈りはこう始まります。
マタイによる福音書6章9節
「だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめれれますように。」
イエスはそれに先立ったこう言っています。
「あなたがたの父なる神は、求めない先から、必要なものはご存じなのである。」
(マタイによる福音書6章8節)
何故祈るのか、その核心をこの言葉はついています。神は祈ろうとする私の父であり、父がわが子のことをその誕生からずっと父であるがゆえによく理解しているように、神は祈る前から私が何を求めようとしているか、何を祈ろうとしているのか知っているのです。そして私たちの祈りを聞き届けようとして心を開いて待っているというのです。ただ見知らぬ人にお願いするのではありません。父に子としてお願いする、それが祈りなのです。
ヨハネの第一の手紙5章 14節 15節
「わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。
そして、わたしたちが願い求めることは、なんでも聞きいれて下さるとわかれば、神に願い求めたことはすでにかなえられたことを、知るのである。」
ただそれには父なる神の子であるということを自覚し、神は父として子の願いを聞き届けてくれるということへの確信、神への信仰が必要であるということです。祈ったときその祈りは既にかなえられているのです。祈りはその結果を、見返りを求めるものではありません。
祈ること、祈りの相手を知り、祈ることができること、そうあることで既に救われているのです。
イエスは初めに「天にいますわれらの父よ」と」祈りなさいと言っています。父は天にいるのです。そこがどのようなところなのか、私たちは知ることはできません。何故かといえば私たちは地上に生きているからです。「天にいます」と祈りなさいということは、私たちが地上にあるからこそ祈ることができるということを示しています。私たちは神によって創られ息を吹き込まれこの地上に生かされています。私たちが生かされ,生きていることは既に神の支配に属しているということです。「天にいます」と祈ることはそのような自分を知ること。地上にある人間の世界において様々な葛藤や苦悩をいだきながら生きていかざる負えない自分、先の教皇の言葉にもありましたが負債を持っている自分を知るということです。そしてだからこそ自分が生きている限りは知ることはできない天にいる神に、父に祈ることができるのだということです。私たちがいる子の世界、地上の世界からは超越した遥か彼方にいる父だからこそ祈りの対象となるのです。天と地が分かれ神は天に、私たちは地にあるように宿命づけられました。祈るとは地上から天を仰ぎ神のことを思うこと、それが原点となるのです。天の神に向かって祈ることができたならば、神が天にあることを信じて祈ることができたならば、その時既に祈りは成就しているのです。神が私たちの父としてその祈りに耳を傾けてくださるからです。父は子のことを思いその願いや希望を成し遂げさせてあげようと思うに違いありません。同じように神は私たちの祈りを聞き届けようとしてくださるのです。
いくら祈っても私たちは神からその答えを聞くことはできません。ただ悲しみや絶望の淵にあって祈りつづけても神は答えてはくれません。それは大震災のとき嫌というほど思い知らされました。でも私たちは祈り続けました。天という時空をはるかに超えたところにいる神に向かって祈ることが、ただ祈り続けることが私たちに救いになるからです。救いであると信じているからです。神が聞き届けてくれるに違いないとただ信じて祈ることで、神は私たちの地上での負債をおろしてくださるのです。
マタイによる福音書5章 3節
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」
大切な者を失い、生きる希望を失った多くの人々を私たちは知っています、私もその一人です。絶望の淵に立ち寄る辺なく生きることを強いられていると言っていいでしょう。でも絶望が生む心の空白が大きければ大きいほど、きっと神に向かって救いを求めて祈ることができるのです。ただ祈りだけで神による慰めと一縷の希望をえることができるのです。心の貧しさとは心の空白を、幸いとは祈ることができるということ、天国とはきっと未来への希望を表しているのではないでしょうか。祈りに神は答えてはくれません、この世の言葉では一方通行というのかもしれません。しかし祈ることで、この山上の垂訓の言葉のように希望を得ることができるのだと思うのです。
新型コロナウイルスの災禍におびえる日が続くとき。私たちに求められているのは、それ克服することができる日までともに耐えることかもしれません。そのためには、教皇が述べるようにお互いに憐みの心を持ち、すべてに人々がいたわり助け合いながらその日を待つということになるのでしょうか。私たちもただ祈ることしかできないでしょう、あの大震災の時がそうであったように。この災禍は人々の孤立と分断を強いています。だからこそ今、この世界を覆う不安や恐怖に立ち向かい、人々が助けあって災禍に耐え、克服することができる日が来るように祈らなければならないのです。また病に侵され苦しんでいる人々のことを思い、差別や非難ではなく連帯と協働を求め、また病に命を奪われた人の無念さを思い祈るのです。そして、ごく平凡な日常生活がとりもどせるように祈るのです。
そのことが唯一私たちに希望を与えるのです。
いや神が希望へと導いてくださるのです。
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