御霊によって歩きなさい(バイデン大統領の就任演説からパウロの言葉を思う)


今月の7日に行われた日曜礼拝での説教です。先月20日のバイデン大統領の就任演説の内容からパウロの言葉を思い、unity(結束、団結)とは、霊の道を共に歩むことで実現できるのではないかと思いました。

 令和3年2月7日

礼拝メッセージ

御霊によって歩きなさい。


2021年も既に1月以上たちました。

例年のことですが私が勤める社会福祉法人のホームページに新年のあいさつを掲載しました。主な内容は法人が抱える課題にどう立ち向かうか、その決意を述べたものですがその冒頭にこう記しました。

「令和3年、西暦2021年がスタートしました。

「おめでとう」と言うべきなのでしょうが、素直にそう言い切ることはできそうにありません。それは東日本大震災の後に迎えた年の思いに重なります。

世界は新型コロナウイルス感染症の災禍に怯えています。不安と焦燥を抱えながら私たちは新年を迎えることになりました。いくつかのワクチンの接種が始まっていますが、何時この災禍から人類は逃れ得るのか先は見通せないままです。文明はそれまで分散し孤立していた人類が他者に出会い、言葉を交わし、認識を共有し、共同して働くことを発見したことで始まりました。でも感染症は人と人が接触することで拡大します。それは共有や共同というこの人類社会の根源を脅かす病であると言えるでしょう。

また昨年は”Black Lives Matter" を掲げた社会運動が、この社会に人種や民族や宗教などの差異を理由とする差別や偏見が、深くそして根強く存在していることを明らかにしました。なぜ差別や偏見が生まれるのか、その答えを得ることは簡単ではありませんが、人権思想を得た私たちは差別や偏見を超えて、すべての個人が平等であり、自由を希求できることを社会の普遍的な価値としてきました。しかし昨年の様々な出来事は、その価値を大きく揺るがすものでした。

このような時代にどうしたら私たちは「おめでとう。」と言えるのか。

私達が関わる障害者福祉の世界において問題はさらに深刻であると言えるでしょう。

感染症は人と人が近づくことを忌避しますが 障害のある人を支援するためには近づくことこそ求められています。介護の現場は、身体的に触れあい、言葉をかけ、支援者と利用者が理解しあい信頼しあうことで成り立っています。グループ活動でも利用者同士が相互に認識しあい様々な共同作業を行うことで成長していくことをめざしています。むろん一人ひとりの状態は異なるので接触や言葉かけ、相互関係の濃淡は異なりますが、それぞれに合わせた“触れあい”によって支援をしなければならないのです。

障害のあることは人間の差異の一つではあります。障害者福祉の目的は社会の側がすなわち社会の普遍的な価値の側が障害ゆえの差異を克服してゆくことにあります。障害のある人が克服していくのではありません。市民の人権に対する価値観、障害があっても平等であるための社会環境(法制度、経済政策、都市計画等)、地域生活の支援などが社会の側に求められているのです。人種や民族のような対立や抗争を引き起こしてはいませんが、潜在化している障害者への差別や偏見は依然として存在し、そのことを障害のある人は生活のしづらさ等として実感しているのです。」


先月の20日にはアメリカ合衆国のバイデン大統領の就任式が行われました。就任演説のテーマは私のあいさつと同じく、新型ウイルスの感染という世界的な災禍に立ち向かうこと、露になった分断と対立によって危機に瀕している民主主義を団結(unity) によって復権するということでした。そのためには相手の立場に立って、互いに助け合わなければならないとして、こう呼びかけます。


「品のない闘い(uncivil war)を終わらせなければならない。終わらせることはできるのだ。心を固く閉ざすのではなく魂を開けば。ほんの少しの寛容さと謙虚さを示せば。そして私の母が「少しで良いから相手の立場に立って」と諭したように、他人の立場に立ってみようとすれば。なぜなら人生とは、どのような運命が待ち受けているか分からないからだ。手を貸してほしい日もある。手助けを求められる日もある。そうあるべきだ。互いのためにすることだ。そのようにすれば、わが国はより強く、より豊かに、将来への準備がより万全になる。そして、われわれはなお意見を異にすることができる」。


 障害者福祉を実践していくためには、実践者は利用者の立場に立って、利用者の思いはどこにあるのかを問い続けていかなければなりません。そして仮に自身に差別や偏見があったとしても寄り添うことで乗り越えていかなければならないし、寄り添えば一人の人格に触れることが出来、そう成れるのです。

アメリカではuncivil war があからさまな形で起こりました。大統領一人でそれに終止符を打つことはできないでしょう。国民の一人ひとりがこの呼びかけに真摯に向き合わなければなりません。それが可能なのか。

聖書ではこう教えています。


マルコによる福音書/ 12章 29節から34節

「イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。

心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。

第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。

そこで、この律法学者はイエスに言った、「先生、仰せのとおりです、『神はひとりであって、そのほかに神はない』と言われたのは、ほんとうです。

また『心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」。

イエスは、彼が適切な答をしたのを見て言われた、「あなたは神の国から遠くない」。それから後は、イエスにあえて問う者はなかった。」


聖書を紐解けば誰でも出会う言葉です。聖書を読んだことのない人も多くの方が聞いたことがある言葉です。

でもそれから2千年、私たちは本当に隣り人を愛することを戒めとしてきたのか。もし戒めとしてきたのであれば、なぜ人類の歴史はこうも悲惨なものなのか。バイデンのような言葉は今までも数限りなく繰り返されてきました。またそうあれと繰り返し祈られてきました。

バイデンはこうも述べています。


「近頃は団結(unity)を口にすると、一部の人々には愚かな空想に聞こえるだろう。分断の力は深刻で、現実のものだ。だが今始まったことではない。われわれの歴史は、皆が平等という米国の理想と、人種差別や排斥主義、恐怖、非道がわれわれを引き裂いてきた厳しく醜い現実の間で絶えず争ってきた。この闘いは繰り返され、勝利の保証はない。」


 分断は今始まったことではなく、人類の歴史は分断へと導く力と平等という理想との闘いであったと問うのです。ただここで、バイデンは引き裂く力は現実であり、平等は理想であるとしています。現実と理想の争いでどちらが勝利するのでしょうか。現実は事実であり、理想は観念でしかないと言えるかもしれません。だとすれば現実が事実である以上現実が理想との闘いに勝ち続けているともいえるのです。たたそれで良いのか。


私はここでパウロのことを思います。信仰から離れそうになっている信徒たちにその思いは「肉」の思いであり、イエスにいただいた「霊」によって信仰を守るように諭す手紙を書いています。


ローマ人への手紙8章 5節から8節

なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。

肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。

なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。

また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。


肉とは現実、霊とは理想と置き換えることが出来るのではないかと思うからです。

肉に従った欲望や憎悪が分断や対立を生み出し、霊に従った敬虔や寛容が連帯や共同を生み出すのです。

肉の思いが神に敵するものならば、分断という現実は神に敵しているのです。神に敵と思わせるような現実がイエスの時代からバイデンの就任演説がなされる現代まで人類の歴史に貫かれているのです。

この現実に対してどう立ち向うのか。


更にパウロはこうも述べています。

ガラテヤ人への手紙5章 13節から22節

兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。

律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。

気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうだろう。

わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。

なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。

もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。

肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、

偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、

ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、

柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。


ここではより具体的に肉と霊の違いが示されています。肉の欲を満たそうとする時に敵意や争いが生まれる。霊に従うならば寛容や平和がもたらされるというわけです。肉の欲を満たそうとすることをパウロは「「互いにかみあい、食いあっている」と言っています。まさに互いに肉の欲望が激突し、肉が肉を食い合う共食いとなって両者ともが死んでしまう、滅んでしまうというわけです。

そしてその霊に従っていくために私たちがなすべきことは「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」ということだと命ずるのです。

これはそのまま、先に述べたイエスの言葉と同じです。

バイデンもまた述べます


「多くの人々が皆を前進させるため団結(unity)してきた。そして今、われわれにはそれができる。歴史、信念、そして理性は道を示す。団結(unity)への道だ。われわれは互いを敵ではなく、隣人として見ることができる。尊厳と敬意を持って互いに接することができる。」


互いを敵ではなく、隣人としてみることができるというのは、愛することができるということでしょう。そうすることで団結(unity)することができると語るのです。

肉の欲望が人類の歴史に貫かれている、それをどう克服するのか。

隣り人を愛し、霊の道を歩むことができれば克服できるのか。

イエスの言葉、パウロの言葉は真理です。

人間に理性がある限り、イエスの語る真理を実践によって示すことができるはずです。しかし歴史は理性によってのみ人間が思考し行動していくことができないことを示しています。

アメリカで示された主に人種の違いを原因とした対立や憎しみは、間違った政治によって一挙に噴出したように見えますが、その対立は奴隷制度が廃止されたことを起源の一つとしているように思います。黒人が売買される商品である奴隷から市民となることで彼らを自分と同じ人間として認めなければならなくなった白人のジレンマが、対立を生み出しているのです。奴隷であった彼らを蔑み、人間として対等、平等であることを認めず、差別することで既存の優位性を保とうとする欲望は白人の心の底に根強く存在しているのです。

 むろん奴隷制度はアメリカに始まったものではありません。特に有名なのがイギリスの奴隷貿易です。アメリカの黒人はこの貿易によって海を渡ってきたのです。動物の狩猟をするようにとらえられ、鎖につながれ、奴隷船で運ばれ、市場で売られたのです。そして馬や牛のように白人のもとで働かせられたのです。その悲惨な歴史を考えれば、彼らの境遇を憐れみ、自分たちと対等になるよう助けてあげようと思うのが霊の働きであると言えるでしょう。

 制度としての奴隷制はなくなりましたが、黒人を蔑みたいという欲望が消えたわけではありません。他者を蔑み、自分より劣ると考えることで自分のアイデンティティを保とうとする欲望は誰にでもあると言えるでしょう。他者と自分の能力を競い、少しでも秀でようとする限り、それは避けられない現実であると言えるのです。

障害者を取り巻く偏見や差別もその根源は、障害者との差異を競いあっている能力の優劣とみなし、自分より劣っていると考えることで自身のアイデンティティを維持しようとする欲望にあるのです。競いようのない障害者を蔑むことで自身の優位性を満足させるという卑劣な欲望と言えるでしょう。

では私たちは肉の欲望に支配された世界から逃れることはできないのか。

しかし 同時に、人類は観念としての理想を現実のものにしようとする努力も絶え間なくしてきたのです。制度としての奴隷制をなくそうと戦争までして闘い、黒人による公民権獲得に向けた抗議活動の結果であるとしても、様々な人種差別的な法を廃止し、社会的な地位の向上に向けてたくさんの市民が闘ってきました。人種の問題だけはありません、多様なマイノリティへの、その中には障害者も含まれますが、差別をなくそうとする改革への努力が絶え間なく行われています。その結果世界が多様な人々で構成されていて、それぞれが平等でなければならないという価値観が普遍的なものとなっています。これも現実であると言えるのです。

欲望に従った争いが悲惨な人類の歴史だといいました。そこから逃れることができるのかという疑問を呈しました。しかし、理想である平等を、現実としての分断や差別と闘うことで新たな現実にしていこうという闘いもまた人類の歴史なのです。


欲望と理性、現実と理想、肉の欲と霊の働き。

どちらに与するのか。

どちらに従って生きるのか。

パウロはこう説いています。


「こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる」


霊に従おうと思っても、肉の欲があるために従うことができなくなる。それを乗り越えなければならない。

パウロはこう命じます。


「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。」


むろん答えは明白です。

イエスが説き、パウロが諭すように、霊に従って生きなければならないのです。

でも歴史は繰り返し肉の欲望を選んできたのです。

そして、それゆえの争いを霊の働きが沈めてきたのです。


バイデンはこうも述べています。

「恐れや分断、暗闇ではなく、希望や団結(unity)、光の物語を書こう。良識、尊厳、愛、癒やし、偉大さ、そして美徳の物語だ。私たちを導く物語でありますように。われわれを鼓舞し、きたるべき世代に歴史の求めに応じたと伝える物語だ。」


“And together we shall write an American story of hope, not fear. Of unity, not division. Of light, not darkness. A story of decency and dignity, love and healing, greatness and goodness. May this be the story that guides us. The story that inspires us and the story that tells ages yet to come that we answered the call of history.”

 パウロのガラテア人にあてた手紙の言葉を思い起こさせるような言葉です。

肉の働きではなく霊の働きによる物語を書こう。それが私たちを導くものの物語となるように祈ろう。


バイデンの説く団結(unity)がそのような物語を語るためのカギになるのか。また団結(unity)がそもそも可能なのか。

就任演説ではその意義や役割は語られていますが、決意表明にとどまっています。この先どのような政治が行われるかがためされているのです。

バイデンだけではなくこの世界が。そして私たち一人ひとりもまたためされているのです。

この新型コロナ感染症の災禍が続く中で、どのようにこの災禍と向き合って行くのか。 

 分断や対立を解消し、差別や偏見に打ち勝ち。平等な人類社会を作り上げることができるのかを。


 肉の欲によってではなく霊の働きに従って生きることができるのか。

「『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。

というイエスの言葉に従って生きることができるのかを。


答えは明らかです。ただそのようにできるのか。そのことが問われているのです。バイデンの政治がためされているように。


ヨハネによる福音書15章4節

わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。


私たちはだれひとり、イエスにつながっていなければ何もなすことはできないのです。

「肉の欲によってではなく霊の働きに従って生きることができるのか。」

その問いの答えはここにあります。

それはイエスを信じつながっているということです。つながってさえいればどのような困難にも耐えることができ、実を結ぶことができるのです。


バイデンの就任式では一つの詩が朗読されました。


夜が明ける時、私たちは自分に問いかける。決して終わらないように見える陰の中、一体どこに光があるのかと。

私たちは、失なったものを背負い、海を渡らねばならない。

私たちは、窮地に立ち向かい、学んできた。静けさが平和だとは限らないことを。そして「正義」を定義する規範や概念が、必ずしも常に正しいとは限らないことを。

それでも、私たちが気づく前に、夜明けはやってくる。

なんとかして、私たちはやり遂げるのだ。

なんとかして、私たちは乗り越え、そして目にした。この国は崩壊したわけではなく、ただ未完成だったのだと。

奴隷の子孫で、シングルマザーに育てられた痩せっぽちの黒人の女の子が、大統領になるのを夢見ることができる。その子が、ひとりの大統領ために詩を朗読する。

私たちは、そんな国と時代の継承者なのだ。

確かに、私たちは洗練されたものとは程遠く、純粋で無傷なものともほど遠い。しかし、私たちは完璧な共同体を目指しているわけではない。

私たちは、目的のある共同体を目指しているのだ。

あらゆる人の文化、肌の色、性格、状況を受け止められる国を作るために。

だからこそ、私たちの間に立ちはだかるものではなく、私たちの前に立ちはだかるものに目を向けよう。

分断を終わらせよう。なぜなら私たちは、未来を第一に考えるから。まずは、それぞれの違いに執着するのをやめなければならない。

武器を置いて両手を広げよう。互いの手と手が届くように。

私たちは誰にも危害を加えない。すべての人のために、調和を求める。

せめて、これは真実だと世界に知らしめたい。

嘆きながらも、私たちは成長した。

傷つきながらも、希望を抱いた。

疲弊しながらも、挑戦した。

私たちは永遠に結ばれ、勝利を手にするだろう。

これから先、もう二度と敗北しないからではない。もう二度と、分断の種をまかないからだ。

それぞれが自分のブドウの木やイチジクの木の下に座り、誰も恐れる必要のない世界を描くようにと、聖書は私たちに説いている。

私たちの時代に適うとすれば、刃の中に勝利はない。私たちが架けてきた全ての橋にこそ、勝利がある。

それが約束の地、私たちが恐れずにのぼろうとする丘だ。

アメリカ人であるというのは、私たちが引き継ぐ誇り以上の意味がある。

アメリカ人であるというのは、私たちが足を踏み入れた過去と、それをどう修復するかだ。

国を共有するどころか、粉砕してしまった力を私たちは見てきた。

それが民主主義を遅らせるものなら、私たちの国は滅びてしまう。あと少しで、滅びてしまうところだった。

しかし、民主主義は一時的に止まることがあれど、永遠に敗北することはない。

この真実と信念をもってして、私たちは信じている。私たちが未来を見ているその時、歴史は私たちを見ているから。

今はまさに、償いの時代だ。はじめ、私たちは恐れていた。

そんな恐ろしい時代を引き継ぐ覚悟は、できていないように感じていたから。

そんな中でも、私たちは新たな章を書き上げ、希望と笑いを届ける力を見つけた。

この破滅的な状況に、一体どう打ち勝てるのか。かつて私たちはそう思っていた。でも今、こう宣誓できる。この壊滅的な状況は、果たして私たちに打ち勝てるか?

私たちは過去に戻るのではなく、未来に進む。傷つきながらも一体となっていて、優しくも大胆で、力強く自由な国へと。

私たちは脅しによって引き戻されたり、邪魔されたりはしない。なぜなら、私たちの不実行性や惰性が次の世代に引き継がれ、それが未来になることを知っているから。

私たちの失敗は、次の世代の重荷になる。でもひとつ、確かなことがある。

慈悲と権力を、権力と権利を私たちが融合させれば、愛が私たちの遺産になる。そして、私たちの子どもたちが生まれ持って得るものが変わるだろう。

だから、私たちに残された国よりも良い国を残そうではないか。

ブロンズ色の私の胸が呼吸をするたび、私たちは傷ついたこの世界を素晴らしいものへと変えていく。

黄金の丘がある西の地から、私たちは立ち上がる。

私たちの祖先が最初に革命を実現させたあの吹きさらしの北東の地から、私たちは立ち上がる。

湖畔の街に囲まれた中西部の地から、私たちは立ち上がる。

日が照る南の地から、私たちは立ち上がる。

私たちは再建し、和解し、回復する。

そして、私たちの国の隅という隅まで、多様で美しい国民が現れるだろう。打ちのめされて、それでも美しい姿で。

夜が明ける時、私たちは臆することなく、炎の影から一歩踏み出す。

私たちが解放すれば、夜明けはどんどん膨らんでいく。

光はいつもそこにある。私たちに、光を見る勇気があれば。

私たちが、光になる勇気があれば。

(アマンダ・ゴーマン The Hill We Climb )


光とはイエスのことだと思います。イエスが何時もそこにいる。私たちがイエスにならい生きていくことができればと.そう歌っているのです。




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